終末論的無限上昇の果てに——降りてゆく魂の静けさ ――直線的エスカトロジーと、巡りの時間。その狭間に漂う人間の精神について

無限上昇という、終わりなき終末論
現代という時代を覆っている、
ある種の強迫観念があります。
成長しなければならない。
昨日よりも今日、今日よりも明日、
より高く、より速く、より多くを獲得し、
絶えず自らを更新し続けなければ、
やがて時代の波に取り残され、
競争から脱落し、存在することの価値さえ
失ってしまうのではないかという、
あの奇妙な焦燥感です。
それは一見すると、近代資本主義や産業革命、
あるいは現代の金融技術や
情報技術が生み出した、
比較的新しい精神の病理のようにも映ります。
しかし、この無限上昇という観念の奥底を
覗き込んでいくと、
そこには近代という時代よりも遥か以前から、
人間の精神を捉え続けてきた、
ある古い時間の物語が
浮かび上がってくるのです。
終末論。
エスカトロジー。
世界には始まりがあり、そして終わりがある。
時間は決して同じところへ戻ることなく、
ある決定的な到達点へ向かって
進んでいくという、
不可逆的な時間の構造です。
ユダヤ教やキリスト教の伝統において、
世界の歴史は単なる出来事の反復ではなく、
創造から終末へと向かう、
ひとつの壮大な意味を帯びた物語として
捉えられてきました。
もちろん、その終末とは
単なる破滅を意味するものではありません。
そこには審判とともに救済があり、
滅びとともに再生があり、
現在の世界を超えた新しい世界への希望が
託されてもいます。
しかし私が興味を覚えるのは、
その宗教的な教義の是非ではなく、
世界の時間には
最終的な到達点が存在するという、
ひとつの精神的構造なのです。
人間はどこかへ向かっている。
その先には、現在とは異なる決定的な
何かが待っている。
そして、その何かへ辿り着くことによって、
いま生きている時間の意味が
最終的に明らかになる。
こうした直線的な時間観は、
近代において宗教的な衣を脱ぎ捨てながら、
進歩や発展という別の姿を纏うように
なったのではないでしょうか。
神による救済は、科学による進歩へ。
天上の楽園は、地上における豊かさの実現へ。
そして世界の完成という遠大な目的は、
終わることのない経済成長という、
新たな到達点の追求へ。
もっとも、近代の進歩思想や資本主義が、
宗教的終末論からそのまま生まれたと
考えるのは、あまりに単純な
歴史解釈でしょう。
それでも、
両者の奥に流れている時間の感覚には、
どこか奇妙な相似性があるように
思えてならないのです。
到達すべき未来があり、
その未来へ向かって現在を絶えず
乗り越え続けなければならない。
そして、ここからが厄介なのですが、
現代の経済社会における到達点には、
もはや終わりがありません。
成長を遂げても、
さらに次の成長が要求される。
成功を収めても、
その成功は次なる成功への通過点となり、
昨日までの勝者は、明日には敗者として
市場から退場するかもしれない。
かつての終末論には、
少なくとも物語の終わりが存在していました。
ところが、現代の無限上昇には
終末さえ訪れないのです。
終末へ向かって進み続けながら、
永遠に終末へ辿り着くことのできない世界。
それは、救済という約束を失ったまま、
上昇することの義務だけが残された、
奇妙な世俗の終末論なのかもしれません。
そして私たちは、
その終わりなき階段の途中で、
ふと立ち止まることさえ恐れるように
なってしまったのではないでしょうか。
巡りの時間と、欠けたままの調和
ところで、日本という風土の奥底には、
こうした直線的な時間とは少し異なる、
もうひとつの時間の感覚が
息づいてきたように思います。
春が来れば花が咲き、
夏には草木が繁り、
秋には実りを迎え、
冬には葉を落として大地が眠る。
そして、冬が終われば
再び春が巡ってくる。
そこには何かひとつの最終的な
完成を目指して突き進むというよりも、
満ちることと欠けること、
生まれることと滅びることが
互いに入り混じりながら、
絶えずその姿を変えていく時間が
存在しています。
もっとも、西洋に円環の思想が
なかったわけでも、
日本に直線的な歴史観がなかったわけでも
ありません。
古代ギリシャには永劫回帰を思わせる
循環的な宇宙観があり、
日本の仏教にも末法思想という、
歴史がある方向へ衰退していく
時間の観念がありました。
東洋は円環、西洋は直線などと、
世界の思想を
二つに切り分けることはできません。
むしろ人間の精神には、
その両方の時間が複雑に折り重なって
存在しているのでしょう。
それでも、日本の四季や自然観、
無常をめぐる美意識の中には、
完成されたものよりも、
移ろいゆくもの、欠けゆくものに
深い情感を見出す精神が育まれてきたことも、
また確かなように思います。
満開の桜だけでなく、
散りゆく桜に心を動かされる。
月の満ちた姿だけではなく、
雲に隠れ、あるいは欠けた月の光に、
かえって得も言われぬ美しさを感じる。
そこにあるのは、不完全なものを
完全にすることによって
美が成立するという考え方ではなく、
不完全であることそのものに、
すでにひとつの美が宿っているという感覚です。
私は、こうしたものを「歪な和」と
呼びたくなることがあります。
歪みのない完全な均衡ではなく、
互いに異なるもの、
時に相容れないもの、欠けたもの、
崩れかけたものまでを抱え込みながら、
それでもなお、そこに何らかの調和が
生まれているという、
不思議なあり方です。
それは、すべてを
許容するということでもなければ、
対立や矛盾を消し去ることでもありません。
むしろ、矛盾が矛盾のまま存在し、
そこに生じる軋みや不協和さえも、
全体を構成する響きのひとつになっている。
古い建築物の柱が微かに傾き、
庭の苔が思いもよらぬ場所に生え、
長い年月を経て形を変えた石が、
最初からそこに置かれるべくして
置かれていたかのような静けさを湛えている。
そうした風景を前にするとき、
私たちは必ずしも、より新しく、
より整った姿へと作り替えたいとは
思わないのです。
むしろ、そこに積み重なった時間そのものを、
どうにか損なわずに残しておきたいと
感じることさえあります。
この感覚は、無限上昇の思想と、
どこか根本的なところで
異なっているように思えてなりません。
なぜなら、無限上昇は
絶えず現在の自分を否定することで
未来へ向かおうとするのに対し、
巡りの時間は、
現在の自分がすでに何かの途上にあり、
同時に何かの完成でもあるという、
不思議な二重性を持っているからです。
若さには若さの美しさがあり、
老いには老いの美しさがある。
芽吹くことに意味があるように、
葉を落とすことにも意味がある。
何かを獲得する時期があれば、
何かを手放す時期もあり、
外へ向かって広がる季節があれば、
内へ向かって沈み込む季節もある。
しかし現代社会は、
この異なる季節を生きる人々に対して、
まるで一年中が
春でなければならないかのように、
絶えず芽吹き続け、成長し続けることを
要求しているのではないでしょうか。
その無理が、人間の精神の奥深いところに、
言葉にならない疲弊を
蓄積させているように思うのです。
成長の彼方に、成熟という下降がある
私は、成長そのものを
否定したいわけではありません。
人間が昨日までできなかったことを
できるようになり、
知らなかった世界に出会い、
自らの可能性を広げていくことには、
疑いようのない歓びがあります。
問題は、その成長がいつの間にか、
それ自体を目的とするものへ
変質してしまうことです。
何のために成長するのか
という問いが失われ、
ただ成長していない自分は
価値がないという、
倒錯した観念だけが残ってしまう。
そのとき、人間は成長しているのではなく、
成長という観念に
追い立てられているのかもしれません。
ここで思い浮かぶのが、
成長と成熟という、似ているようでいて、
その内実を異にする二つの言葉です。
成長には、どこか外へ向かって
大きくなるという響きがあります。
一方、成熟には、
必ずしも外形的な拡張を伴わない、
内側へと深まっていく時間が
含まれています。
樹木は空へ向かって伸びていきますが、
その姿を支えているのは、
目には見えない地中の根です。
そして、根を深めるという営みは、
外から眺めている限り、
ほとんど何も起こっていないようにしか
見えません。
人間の精神にも、
これとよく似た時間があるように思います。
誰かの評価を得ることもなく、
目に見える成果が生まれることもなく、
昨日と今日とで何が変わったのかさえ
定かではない。
それでも、かつては耐えられなかった沈黙に
耐えられるようになり、
以前なら激しく反発していた出来事を、
少し異なる角度から眺められるようになり、
正しいか間違っているかという
二者択一だけでは捉えきれなかった
人間の複雑さを、
複雑なまま抱えられるようになっていく。
そうした変化は、果たして成長という尺度で
測ることができるのでしょうか。
私はむしろ、そこに成熟という、
もうひとつの生の深まりが
あるように感じています。
そして成熟には、時として
下降することも必要なのではないでしょうか。
高みに登ることによって
見える風景があるように、
深く降りていくことによって
初めて触れることのできる世界もある。
山の頂上から眺める
壮大な景色も美しいのですが、
谷底へ降りなければ聞こえない
小川の音があり、
陽の光が届きにくい
湿った岩肌にしか育たない苔もある。
上昇することだけを
人生の価値と見なしている限り、
私たちは、そうした世界を
永遠に見落とし続けて
しまうのかもしれません。
しかし、下降とは必ずしも
敗北を意味するものではありません。
立ち止まることも、手放すことも、
時には何も生み出さずにいることさえも、
人生という長い時間の中では、
ひとつの成熟の姿になり得る。
ただし、停滞そのものが
成熟を保証するわけでもないでしょう。
立ち止まっているという事実よりも、
そこにどのような時間が流れ、
何を見つめ、何を手放し、そして何を
手放すことができずにいるのか。
その、外からは計測することのできない
内的な営みの中に、
人間の成熟というものが
潜んでいるように思うのです。
四つの魂と、人間の内面にある不均衡
こうしたことを考えていると、
日本の古い魂の観念である
「一霊四魂」が、
私には妙に興味深く感じられてきます。
人間の霊魂には、中心となる直霊があり、
そこに荒御魂、和御魂、幸御魂、奇御魂
という四つの働きがあるとする考え方です。
もちろん、その解釈には
さまざまな伝承や思想的な展開があり、
古来より一貫した心理学的体系として
存在していたわけではありませんが
私は、この四魂の観念を、
人間の精神の中に共存している
異なる働きを見つめるための、
ひとつの象徴として捉えています。
荒御魂(あらみたま)。
それは、何かを切り拓き、現状を打ち破り、
ときには古い秩序を破壊してでも
前へ進もうとする、激しい生命の働きです。
この力がなければ、人間は
理不尽な現実を前にして立ち上がることも、
既存の世界を乗り越えることも
できないでしょう。
しかし、その激しさが過剰になると、
突破し続けなければならないという
焦燥に変わり、他者だけでなく、
自分自身の弱ささえも
許すことのできない精神へと
傾いていきます。
現代の無限上昇という強迫観念には、
この荒々しい力が休息を失った姿も、
どこか重なって見えるのです。
幸御魂(さきみたま)。
こちらは、生命を慈しみ、
養い、育むという、
温かな働きを象徴するものとして
感じられます。
競争に勝つことでも、
誰かより優れていることでもなく、
ただ生きているということそのものに、
何らかの充足を見出す力。
それは、疲れ果てた身体を
湯に浸しているときや、
誰かと他愛のない会話を交わしているとき、
あるいは、何の成果も生まない
午後のひとときに、
不意に訪れることがあります。
そこでは、存在することの意味を
証明する必要がありません。
しかし、この感覚を失ってしまうと、
人間は自らを絶えず有用性によって
測定するようになり、
何も生み出していない時間にさえ、
奇妙な罪悪感を抱くようになってしまいます。
奇御魂(くしみたま)。
それは、未知なるものを探求し、
世界に潜む理を見つめ、
思索を深めていく知恵の働きです。
なぜ私は焦っているのか。
なぜ、誰かの成功を見るたびに、
自分が取り残されたような気持ちになるのか。
そもそも、私が手に入れたいと
思っているものは、
本当に私自身が欲しているものなのだろうか。
こうした問いを立てることによって、
人間は自らの感情に呑み込まれた状態から、
ほんの少し距離を置くことができます。
ただし、知恵もまた過剰になれば、
世界のすべてを理解し、分類し、
説明し尽くそうとする、
もうひとつの支配欲へ
変わってしまうのでしょう。
知らないということを許せず、
答えのない問いに耐えられず、
曖昧なものを曖昧なままにしておくことが
できなくなる。
それでは、知恵そのものが
精神の自由を奪うことにもなりかねません。
そして、和御魂(にぎみたま)。
それは、荒々しいものを鎮め、
異なるものを結び、
調和へと導いていく働きです。
しかし、ここでいう調和を、
単に波風の立たない
平穏な状態と捉えてしまうと、
その本質を見失ってしまうように思います。
なぜなら、人間の内面から
葛藤や矛盾が完全に消え去ることなど、
おそらくないからです。
激しく何かを求める自分がいる。
同時に、もう何も求めずに
静かにしていたい自分もいる。
未知の世界を探求したいと思いながら、
一方では、慣れ親しんだ場所から
離れたくないと願う自分もいる。
それらを、どれかひとつの
正しさによって裁き、
不要なものとして
切り捨ててしまうのではなく、
互いに相容れないものが
存在しているという事実そのものを、
まず受け入れてみる。
そこに、私の思う
「歪な和」の感覚があるのです。
荒御魂があるからこそ、
人間は現実に抗うことができる。
幸御魂があるからこそ、
誰かを慈しみ、
自らの生命を養うことができる。
奇御魂があるからこそ、
世界の奥に潜む未知の何かを
探し求めることができる。
そして和御魂があるからこそ、
それら異なる働きが、
互いを滅ぼし合うことなく、
ひとつの生命の中に共存することができる。
四つの魂が、常に均等な力で働いている
必要などないのでしょう。
あるときには荒々しく、あるときには温かく、
あるときには冷徹なまでに思索へ沈み込み、
またあるときには、そのすべてから離れて、
ただ静かに佇んでいる。
調和とは、均衡を崩さないことではなく、
崩れながらもなお、
ひとつの生命として
響き続けていることなのかもしれません。
そして、その不均衡な響きの奥底に、
何ものにも容易には揺るがされない
静かな中心がある。
一霊四魂における直霊という観念を、
私はそうした内面の中心を見つめる
手がかりとして、受け取っているのです。
忘却の美学と、役に立たない時間
ところで、人間が自らの内面へと
降りていくためには、
何かを新しく獲得すること以上に、
何かを忘れることが必要なのではないかと
思うことがあります。
現代社会は、忘れることを
あまり好まないようです。
情報を蓄積し、知識を更新し、
過去の経験を分析し、
そこから何らかの教訓を導き出して、
次なる成果へと結びつけていく。
何ひとつ無駄にせず、
あらゆる出来事を意味づけ、
価値へと変換していこうとする精神です。
しかし、人間が経験する出来事のすべてに、
明確な意味や有用性が
存在していなければならないのでしょうか。
誰かとの何気ない会話。
何を考えていたのかさえ
思い出せない散歩の時間。
何年も前に読んだ本の、内容ではなく、
ただその本を読んでいた
部屋の明るさだけが記憶に残っている
というような、奇妙な感覚。
そうしたものは、
何かの役に立つからこそ
価値があるのではなく、
役に立つかどうかという尺度から
離れたところで、すでに私たちの
生の一部となっているのでしょう。
私は、忘却とは単なる記憶の喪失ではなく、
時として、精神を過剰な意味づけから
解放する働きでもあるように思うのです。
忘れてよいことを忘れる。
知らなくてもよいことを
知らないままにしておく。
すべての問いに答えを与えず、
すべての時間を
何かのために使おうとしない。
これは、現代の効率主義から眺めれば、
どこか怠惰で無責任な態度に
映るのかもしれません。
ところが余白というものは、
何かを詰め込むために
存在しているのではないのでしょう。
日本の絵画や建築において、
何も描かれていない空間や、
何も置かれていない場所が、
かえって全体の美しさを
深めることがあります。
何もないことが、何かの欠落ではない。
むしろ、何もないからこそ、
そこに風が通り、光が差し込み、
見る者の想像が入り込むことができる。
人間の精神にも、これと同じ余白が
必要なのではないでしょうか。
情報によって埋め尽くされ、
予定によって隙間なく覆われ、
あらゆる行動が何らかの目的へと
結びつけられた生活の中では、
まだ言葉にならない感情や、
自分自身でも気づいていない
微かな願いが、静かに立ち現れる余地を
失ってしまいます。
そのようなとき、必要なのは、
さらに優れた知識や技術を
獲得することではなく、
むしろ、それまで握りしめていたものを
少しずつ手放していくこと
なのかもしれません。
何かを付け加えることによって
豊かになるのではなく、
何かを取り除くことによって、
初めて見えてくる豊かさがある。
そのような引き算の美学を、
私たちはいつの間にか
忘れてしまったようにも感じるのです。
生態系が教える、もうひとつの生存
こうした思索をさらに進めていくと、
自然界の生態系というものが、
人間社会の無限上昇とは
随分異なる世界のあり方を
示していることにも気づかされます。
もちろん、自然界が常に平和で
調和に満ちているわけではありません。
そこには激しい捕食があり、競争があり、
時には環境の変化によって
多くの生命が失われるという、
冷徹な現実も存在しています。
しかし、自然界の生命が、
すべて同じひとつの頂上を目指して
競争しているわけではないということも、
また事実です。
高く伸びる樹木があれば、
その陰で生きる植物がある。
陽光を必要とする生命があれば、
暗く湿った環境の中に、
その生存の場所を見出す生命もある。
ある生物にとっては過酷な環境が、
別の生物にとっては、
むしろ生きるための
条件となることさえあります。
生態学では、それぞれの生物が
環境や他の生物との関係の中で占める
独自の位置を、ニッチ、
すなわち生態的地位と呼びます。
それは単なる競争からの避難場所ではなく、
それぞれの生命が、
異なる条件のもとで
異なる営みを続けているという、
生態系の多様性を示す概念です。
ここに私は、
人間の生き方を考えるうえでも、
興味深い示唆を感じています。
なぜ、すべての人間が同じ尺度で成長し、
同じ場所で成功し、
同じような豊かさを
獲得しなければならないのでしょうか。
ある人にとっての上昇が、
別の人にとっては下降であることもある。
ある人が心から望む成功が、
別の人にとっては、
むしろ自らの生を
損なうものであることさえある。
それにもかかわらず、
社会が提示する成功の尺度を
唯一のものと信じ込んでしまったとき、
人間は自分自身が
本来生きることのできた場所から、
いつの間にか
遠ざかってしまうのかもしれません。
ただし、ここで私が言いたいのは、
競争から降りさえすれば
安らかな人生が
保証されるということではありません。
競争から離れた場所にも困難はあり、
独自の生き方を選ぶことには、
それ相応の孤独や責任が伴います。
それでも、自分が何を求め、何を大切にし、
どのような場所で生きていきたいのかを、
自ら問い直すことには、
他者の尺度では測ることのできない
価値があるはずです。
誰もが同じ山の頂上を目指して登る必要はない。
山の中腹に暮らす者がいてもよいし
、谷間に畑を耕す者がいてもよい。
あるいは山を登り続けた果てに、
ようやく自分が本当に耳を
澄ませたかったのは、
頂上を吹き抜ける風ではなく、
麓を流れる小川の音だったと
気づく人もいるのでしょう。
それを敗北と呼ぶことが
できるのでしょうか。
むしろ、そこに至るまでの
上昇の時間さえも含めて、
ひとつの人生の成熟として捉えることが
できるのではないかと思うのです。
未来は、いつも上方にあるとは限らない
終末論的な時間観において、未来とは、
現在の延長線上に待ち受ける、
ある決定的な到達点として描かれます。
しかし、未来というものは、
本当に現在を積み重ねた先にだけ
存在しているのでしょうか。
私たちは時折、まだ経験したこともなく、
明確な姿さえ持たない何かに、
不思議と心を引かれることがあります。
理由もわからず、ある場所を訪れたくなる。
何年も忘れていた音楽を、
突然もう一度奏でたくなる。
かつては何の価値も見出せなかった出来事が、
長い年月を経たある日、
不意に異なる意味を帯びて立ち現れてくる。
それは、過去の経験によって
現在の自分が形作られているという
説明だけでは、
どうにも捉えきれないような感覚です。
まだ見ぬ何かが、現在の自分を呼んでいる。
そうした未来からの
微かな呼びかけのようなものを、
私たちは時として感じ取ることが
あるのではないでしょうか。
もちろん、それは何らかの
神秘的な力によって
未来があらかじめ決定されているという
話ではありません。
むしろ、自分自身の中に、
まだ知らない自分が存在している
ということなのかもしれません。
そして、そのまだ知らない自分と
出会うためには、必ずしも今より
高い場所へ登る必要などないのでしょう。
時には、これまで登ってきた階段から
降りてみること。
時には、何十年も
手放すことのできなかった価値観を、
そっと地面に置いてみること。
あるいは、何かを成し遂げるためではなく、
ただ自分の内面に流れている、
微かな響きに耳を澄ませてみること。
そうした、外側からは
何も起こっていないように見える
時間の中にこそ、
これまで想像もしなかった
新しい生が、
静かに芽吹いているのかもしれません。
終わりのない階段から、静寂へと降りてゆく
さて、こうして終末論から近代の成長思想、
巡りの時間、
そして人間の内面にある四つの魂へと
思索を巡らせてくると、
私の中には、ひとつの奇妙な感覚が残ります。
それは、上昇することを
やめるという決断さえも、
ひとつの上昇に
なってしまうのではないかという、
厄介な問いです。
成長を超えて成熟しよう。
競争を超えて静けさを手に入れよう。
外側の成功を手放して、内面の豊かさを獲得しよう。
そのように考え始めた途端、
私たちは再び、
今よりも優れた状態へ到達しようとする、
別の階段を登り始めているのかもしれません。
静けささえも、獲得すべき成果となる。
成熟さえも、達成すべき目標となる。
そして、誰よりも執着のない人間に
なろうとすることによって、
執着を手放すという行為そのものに、
強く執着してしまう。
人間の精神というものは、
まことに厄介なものです。
しかし、だからこそ私は、
何かひとつの完成された境地へ
到達することよりも、
そうした矛盾を抱えたまま
生きていくことの方に、
深い興味を覚えるのです。
競争心が消えなくてもよい。
誰かを羨ましいと思う自分がいてもよい。
何かを成し遂げたいという
激しい念いがありながら、
同時に、何も成し遂げずに
静かに暮らしていたいという
願いがあってもよい。
そうした不均衡な自分を、
何かひとつの正しさによって
矯正しようとするのではなく、
その歪みそのものを、
自らの生命の響きとして聴いてみる。
そこには、決して完成されることのない、
ひとつの和があるように思うのです。
それは、世界の喧騒から
完全に隔絶された安住の地ではありません。
社会の中で生きている限り、
私たちはさまざまな責任を負い、
他者との関係に揺さぶられ、
時には望まぬ競争に
身を置かなければならないことも
あるでしょう。
それでも、外側の世界が
どれほど激しく変転しようとも、
自分の内側には、
誰からも評価される必要のない時間があり、
何かの役に立つことを
要求されない静けさがあり、
ただ存在することだけで許されるような、
小さな場所がある。
私は、そのような内面の静けさを、
どこか森の奥深くに佇む、
古びた庵のように
思い浮かべることがあります。
そこには、誰かに見せるための
立派な門もなければ、
自らの価値を証明するための
豪奢な調度品もありません。
ただ、長い年月を経た木々があり、
陽の届かぬ場所には苔が生え、
軒先を吹き抜ける風が、
時折、何とも言えない音を響かせている。
何かを得るために訪れる場所ではなく、
何かを得なければならないという
観念そのものを、
ほんのひととき忘れることのできる場所。
そこでは、昨日よりも今日が
優れている必要もなければ、
明日の自分が今日の自分を
乗り越えていなければならないという
義務もありません。
春には春の、冬には冬の、
そして老いには老いの、
それぞれ異なる時間が流れている。
その静けさの中で、
これまで必死になって登り続けてきた階段を
振り返ってみると、
あれほど遠くに見えていた頂上が、
何とも不思議なことに、
もはや自分の目指すべき場所では
なくなっていることに気づくかもしれません。
しかし、それは登ってきた時間が
無駄になったということでもないのでしょう。
登ったからこそ、降りてくることができた。
遠くを目指したからこそ、足元にあるものの
美しさに気づくことができた。
そして、かつての自分には
聞こえなかった微かな響きが、
いまは、はっきりと聞こえている。
そのような時間の重なりの中に、
私は、無限上昇とは異なる、
もうひとつの豊かさのあり方を感じるのです。
人間は、どこまでも
高く登ることによってのみ、
その生を完成させていく存在なのだろうか。
あるいは、長い年月をかけて
登り続けた果てに、
ようやく降りていくことを覚え、
やがて、自らの内に広がる
静かな深みに触れていく
存在でもあるのだろうか。
私はまだ、その問いに
明確な答えを持っていません。
ただ、無限上昇という名の
終わりなき階段を、
誰もが急ぎ足で登っている時代だからこそ、
時にはその足を止め、
どこへ向かうとも知れぬ細い山道を、
静かに降りていくことにも、
ひとつの生の美学が
あるように思えてならないのです。
そして、その道の先に何があるのかは、
まだわかりません。
ただ、人生というものは、
いつまでも春でなくてよいのだと思うと、
夏の暑い日差しや
秋の夕暮れや、
冬枯れの庭にも、
これまでとは少し違った美しさが
感じられるのです。
ただ、木々の間を渡る風の音だけが、遠く、微かに聞こえているのです。
ーーーーーーーー
未来型という、少しへんてこりんな凸凹の学び舎ーー未来型夢の降るみち。
未来型を、もう一つの眼から














