初めてこの庵へ迷い込まれた方へ――三つの小径

はじめまして、山籠り竹川です。
このブログへ初めて来られた方の中には、
検索から一つの記事へ辿り着いた方もいれば、
アメブロや誰かの紹介から流れ着いた方、
あるいは神話や哲学、
お金や仕事について調べているうちに、
なぜか量子論とフグの糠漬けの話を読んでいた、
という方もいらっしゃるかもしれません。
ここは、何か一つの専門分野について、
分かりやすく順番に解説するための
ブログではありません。
古事記や聖徳太子の話をしていたと思えば、
カミュやニーチェの方へ歩いていき、
京都の東山や山の静けさへ立ち止まり、
そこから突然、仕事やお金、
インターネットやAIの話へ
戻ってくることがあります。
書いている私自身も、
初めから目的地を決めているというより、
遠く離れていたはずのもの同士が
奥の方で同じ響きを持っていることに気づき、
その間にある道を
確かめるように言葉を綴っています。
ですから、初めて来た方には、
少し分かりにくい場所かもしれません。
ただ、分かりにくいものを分かりやすく
整理しすぎてしまうと、
その途中にあったはずの余白や、
まだ言葉になりきらない気配まで
消えてしまいます。
この庵では、答えを早く見つけることよりも、
日々の忙しさや世間の正しさから少しだけ離れ、
自分は本当は何をやりたかったのか、
何をしているときに奥の火が灯るのか、
仕事とお金を自分の魂から切り離さずに
生きる道はないのか、
そんな問いを一緒に深めていきたいと
思っています。
このブログにある記事を、
最初からすべて読む必要はありません。
どこから読んでもよいのですが、
入口が何もないのも少し不親切ですので、
ここでは三つの小径を案内しておきます。
三篇は、未来型の全体を順序立てて
説明するものではありません。
それぞれ別の場所から、
この庵に流れている時間や、
仕事と生き方への眼差しに触れられる記事です。
いまの自分に近いと感じる小径があれば、
そこからゆっくり入ってみてください。
一 なぜ山に籠るのか――未来型の根に触れる小径
山に籠る意味と「未来型の生き方」とは
山に籠るというと、
人里を離れて世間から逃げることや、
静かな場所で何もせずに暮らすことを
思い浮かべるかもしれません。
しかし、私にとっての山籠りは、
社会や仕事を捨てることではなく、
外から絶えず流れ込んでくる
「こう生きるべきだ」
「仕事とは我慢するものだ」
「好きなことでは食べていけない」
という声から一度離れ、
自分の奥にまだ残っている
微かな調べを聴き直すための時間でした。
私は音楽の仕事をしていた頃、
好きな音楽に没頭することと、
売上を作り、仕事として成り立たせることは、
本来離れたものではないと感じていました。
しかし、その後さまざまな出来事が重なり、
仕事を辞め、借金を抱え、
山に籠ることになります。
何もなくなったように見える場所から、
ブログを書き、写真を撮り、
インターネットを使って小さく仕事を始めたことで、
好きなことや偏愛は、
現実から逃げるためのものではなく、
もう一度現実とつながり直すための
力になるのだと知りました。
この記事には、なぜ私が山に籠り、
そこから未来型という生き方や
学び場へ向かっていったのか、
その根にあるものが書かれています。
「仕事でやりたいことをやって生きる」とは、
いきなり好きなことだけを仕事にして、
現実の問題がすべて消えるという話ではありません。
むしろ、自分の中にある声を封印せず、
それを小さく現実へ結びつけ、
磨き続けていく道です。
まず、この庵の山門にあたるところから
歩いてみたい方のために、
こちらの記事を佇ませておきます。
「山に籠る意味と『未来型の生き方』とは」
二 やりたいこととお金を分けない――現実へ下りていく小径
『やりたいこと』を深めながら、お金を「貯め、増やし、巡らせる」静かな仕組み
好きなことや、やりたいことについて
語り始めると、
なぜかお金の話をしてはいけないような
空気が生まれることがあります。
反対に、お金を稼ぐ話になると、
自分の美学やこだわり、
心の奥から湧き出てくるものは邪魔だから、
効率や市場に合わせて削った方がよいと
言われることもあります。
けれども、本当にどちらか一方を
選ばなければならないのでしょうか。
やりたいことを大切にしながら、
お金については冷静に考え、貯め、増やし、
必要な場所へ巡らせていく。
合理的な仕組みやAIを使いながら、
仕事の中心には効率では測れない
偏愛や美学を置いておく。
これは綺麗に半分ずつ
分けるということではなく、
ときには一方へ大きく傾きながら、
それでも両方を手放さない
「不均衡の調和」なのだと思います。
未来型に来る方も、初めから神話や哲学を
深めたいと思って来られる方ばかりでは
ありません。
もっとお金を稼ぎたい、
今の仕事を変えたい、
自分にも何かできることはないだろうか、
という思いから始まることが多いです。
しかし、その問いを一緒に深めていくと、
やがて「自分は何をやりたかったのだろう」
「何をしているときの自分が幸せなのだろう」
という、もう少し奥にあった問いが
顔を出します。
この記事は、精神的に美しく生きるために
お金から離れるのでもなく、
お金を得るために魂を置き去りにするのでもない、
その間にある静かな仕組みについて
書いたものです。
この庵で語っていることが、
現実の仕事や暮らしと
どのようにつながるのかを知りたい方は、
こちらの小径から入ってみてください。
「『やりたいこと』を深めながら、お金を『貯め、増やし、巡らせる』静かな仕組み」
三 東山とカミュの間を歩く――この庵の響きに触れる小径
東山の行間とカミュの眼差し
三篇目は、未来型について最も分かりやすく
説明している記事ではありません。
むしろ、この庵が
少しへんてこりんな場所であることを、
そのまま感じていただくための記事です。
アルベール・カミュは、
日本を訪れたことがありません。
それでも、もし彼が京都の東山を歩き、
銀閣寺から法然院、哲学の道を通って
熊野神社へ向かったなら、
世界の沈黙をどのように感じただろうか。
地中海の苛烈な太陽の下で
不条理を見つめたカミュの眼差しと、
苔むした寺社が都会のすぐそばで
今も皮膚呼吸を続けている
東山の静けさを重ねながら、
私はその間にある行間を歩いてみました。
未来型では、異なるものを
一つの正しさへ統一しようとはしません。
神話と哲学、東洋と西洋、合理性と直感、
仕事と遊び、孤独とご縁、豊かさと静けさ。
それぞれが違う音を持ったまま、
どこかで共振し、不均衡ながら
一つの響きを生み出している。
その「歪な和」の中に、
人間の仕事や生き方をもう一度
見つめ直してみます。
私にとって文章は、
情報を正しく運ぶためだけのものではなく、
音楽に近いものです。
言葉そのものだけではなく、
言葉と言葉の間にある呼吸や、
書かれていないものの気配が、
読む人の奥に何かを残すことがあります。
この記事を読んで、すぐに役立つ答えは
見つからないかもしれません。
けれども、なぜか妙に気になる、
よく分からないけれどもう少し読んでみたい、
そんな響きが残ったなら、
この庵とは相性がよいのかもしれません。
「東山の行間とカミュの眼差し」
三つの小径の、その先へ
ここでご紹介した三篇を、
順番通りに読む必要もありません。
いま仕事や生き方の分岐に立っているなら、
山籠りの小径から。
好きなこととお金の間で揺れているなら、
静かな仕組みの小径から。
説明よりも、この庵に流れる
少し異質な響きへ触れてみたいなら、
東山とカミュの小径から。
その一篇から別の記事へ進み、
古事記や聖徳太子、
魂の資本主義、静かな経済、
未来型富の八法則、
AIと人間、音楽や
京都についての観照録へ、思いがけず
迷い込んでいただければと思います。
迷うこと自体は、悪いことではありません。
効率よく答えへ運ばれるのではなく、
思いがけない場所で、
自分の中にずっとあった何かと
再会することがあります。
私自身も、探していたものを
真っ直ぐ見つけたというより、
山道を歩き、寄り道をし、
忘れていた記憶に触れるうちに、
物語の方からこちらへやって来たように
感じることが何度もありました。
ここは、神話、哲学、音楽から、
仕事でやりたいことをやって生きる道を
深める未来型の庵です。
すべてを理解しなくても大丈夫です。
どこか一篇に、
いまの自分と共振する
小さな音があったなら、
そこからゆっくり歩いてみてください。
三つの小径
「山に籠る意味と『未来型の生き方』とは」
「『やりたいこと』を深めながら、お金を『貯め、増やし、巡らせる』静かな仕組み」
「東山の行間とカミュの眼差し」
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未来型という、少しへんてこりんな凸凹の学び場ーー未来型夢の降るみち。
未来型を、もう一つの眼から














