スサノヲは、どこへ消えたのか ――神がいる場所と、幾重もの表情をもつ神性

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序:消えた素戔嗚



二十年という歳月を隔てて
再び足を踏み入れた出雲の地で、
最初に胸を突いたのは、
あるはずのものが「消えていた」という
静かな違和感でした。


大国主(オオクニヌシ)を祀る
出雲大社でありながら、
その神域全体を呑み込んでしまうほどに、
そこにはスサノヲという神の
荒々しい脈動が、八雲山から直接
降り注いでいるかのように感じられたのです。



しかし今回、未来型の事業繁栄を祈願し、
初めて本殿近くの神域へと
足を踏み入れたとき、
世界は一変していました。


そこには、幾千年もの祈りが
幾重にも沈殿したかのような、
息をのむ静寂と、
容易には近づきがたい威厳が
鎮まっていたのです。


その圧倒的な静寂に打たれ、
ふたたび奥の素鵞社へと足を運んだとき、
かつて感じたはずの巨大な気配は
影を潜めていました。


そこに広がっていたのは、
ただ穏やかに参拝客が行き交う、
どこにでもある観光地のような風景でした。


「スサノヲは、どこへ行ったのだろうか。」


神聖な気配とは、果たしてその土地に
恒常的に固定されている石や木のような
ものなのでしょうか。


それとも、その地を訪れる人間の
内なる魂の位相と、土地の記憶とが
交差した一瞬にだけ立ち現れる、
儚い火花のようなものなのでしょうか。


何を携えてその門をくぐるかによって、
神域はその姿を変えます。


未来の繁栄を祈り、
静寂の深みへと入ろうとする
心の上に現れたのは大国主であり、
かつての荒々しい試練を求めていた
記憶の残像の中には、
もうスサノヲの居場所は
なかったのかもしれません。


旅の冒頭に投げかけられたこの小さな問いは、
やがて出雲の各地に散らばる
「スサノヲの多様な顔」を巡る、
思索の萌芽となっていくのです。




一:四社に見る、スサノヲの多彩な姿



出雲大社で姿を消したスサノヲを探すように
足を進めるうちに見えてきたのは、
ひとつの画一的なイメージには
決して収まりきらない、
あまりにも豊かで複雑な神の諸相でした。



日御碕(ひのみさき)神社へと向かうと、
そこには出雲と対をなすかのように、
日の沈む聖地を護るアマテラスが
鎮座しています。


しかし、その少し高き場所から
海を見下ろすように、
スサノヲの社が建てられていました。


かつて高天原を追われ、
姉であるアマテラスと対立したはずの神が、
ここでは静かに沈みゆく太陽を見守り、
夜の闇を引き受けるかのように
寄り添っています。


表向きの威厳のさらに深奥、
狐たちの気配が蠢く影の森も含めて、
そこには追放と見守りが同居する、
妖しくも美しい不規則な調和がありました。



翌日、豪雨の中で訪れた
韓竈(からかま)神社では、
世界は一転して試練の相を見せます。


濡れた苔と石段を打ち払う雨のなか、
幅四十センチほどの狭い岩の割れ目を
身をよじるようにしてくぐり抜けます。


それはまるで、
激しい怒りと荒々しさをもって、
人間の日々の平穏を試すかのような光景でした。


ところが、狭い岩の参道を抜けたとき、
私自身は思いのほか早く辿り着いたことに、
どこか拍子抜けするような安堵とを覚え
試練を乗り越えた少しばかりの達成感に
浸っていました。


しかし、妻がその瞬間に感じ取っていたものは、
まったく異なる神性だったのです。


岩の狭間を抜けるまでは、
スサノヲの荒魂を思わせる厳しさ。


ところが、その先には
クシナダヒメに抱かれたかのような、
柔らかく温かな気配が満ちていたと言います。


それは、狭い産道をようやく抜け、
産声をあげた赤子が、
母の腕に抱きとめられるような、
途方もない安心感だったのでしょう。


ヤマタノオロチという
巨大な荒ぶる力に立ち向かい、
櫛名田姫をその身をもって
護り抜いたという神話の影が、
岩肌に打ちつける雨音(こぼれ雨)となって
身体に響き渡ります。



そして三日目、須佐(すさ)神社を
訪れたときに広がっていたのは、
荒ぶる神の面影とは程遠い、
京都の大原を思わせる
のどかな里の風光でした。


ゆるやかにそよぐ風、澄んだ川のせせらぎ、
里に広がる田畑の穏やかな佇まい。


荒々しさの代名詞たるスサノヲが、
ここでは人々の暮らしを温かく包み込む
静かなまなざしとして佇んでいます。


しかし、この穏やかな川も、
ひとたび激しい雨に見舞われれば、
人々の暮らしを脅かす奔流となった日が
あったのではないでしょうか。


恵みをもたらす自然が、
ときには容赦なく生命を呑み込もうとする。


その相反する力と向き合いながら、
この土地の人々は祈りを重ね、
暮らしを紡いできたのでしょう。


「八重垣つくる その八重垣を」と
歌を詠んだスサノヲ。


荒々しく泣き叫び、天を乱した神が、
やがて妻を娶り、家を建て、言葉を紡ぎます。


スサノヲという存在は、
荒々しい勇猛さという
一面だけの神ではありませんでした。


荒々しさと優しさ、
破壊と守護、
孤立と包容という、
一見すれば相反する要素を
そのまま内部に宿した、
味わい深い生命そのものを体現する
神性にほかならなかったのです。




結:解決されぬ魂の行方



出雲の四社を巡り終えたとき、
初日に抱いた「スサノヲはどこへ消えたのか」
という問いは、静かに形を変えていました。


スサノヲはどこか一箇所に
留まっていたのではありません。


あるいは、消え去ったのでもありません。


ある時は日御碕の影となり、
ある時は韓竈の巌となり、
ある時は須佐の里の風となって、
出雲という土地の至るところに
その異なる顔を覗かせていたのです。



人間もまた同じではないでしょうか。


怒り、嘆き、誰かを傷つけ、
また誰かを護ろうとする。


荒々しさに身を任せることもあれば、
自らの愚かさに立ち尽くすこともある。


そして、思いがけず一篇の歌を詠むような、
静かな時間が訪れることもあるのです。


それらは本来、一つの尺度によって
整理されるものではないでしょう。


そもそも調和とは、
矛盾が解消された状態を指すのでしょうか。


荒魂を鎮めれば和魂になるというほど、
命の営みは単純ではありません。


荒ぶるものは荒ぶるものとして、
和らぐものは和らぐものとして、
互いの存在を侵しながらも、
なお一つの命の内側に在り続けています。


その解決されぬ矛盾を抱えたまま、
幾重にも変容を繰り返す存在。


スサノヲという神の奥深さは、
あるいは、その容易には統合されない
魂の諸相そのものに
宿っているのかもしれません。


神話は、遠い過去に完結した物語では
ありません。


出雲の山々に宿るこぼれ雨の音を聴き、
ふと立ち寄った蕎麦屋の温もりに触れ、
旅の終わりには名物である
スサノヲラーメンの出汁を味わって帰るような、
日常のささやかな手触りのなかにも
神話の影は生きているのです。


頭での理解は遠く及ばずとも、
身体の奥底には、あの静寂と雨の匂い、
そしてさまざまな相を見せながら巡る
神々の影が、たしかに刻み込まれています。




 




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