現代の檻を破る『理趣経』──空海が泥の底に聴いた「清浄」の本質

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天気のいい日にあてもなく
散歩をしていると、
ふとした瞬間に、脈絡もなく
面白い記憶が頭をよぎることがあります。


先日も歩きながら、
そういえば弘法大師・空海は、
とんでもないことを「清らかだ」
と言っていたな、ということを
思い出していました。


真言密教において彼が最も大切にし、
命懸けで守り抜いたといわれる
『理趣経(りしゅきょう)』という
お経の中にある言葉のことです。



世間一般では、
心の中に生まれる様々な欲望や、
他人にはあまり見せないような
強い感情は、無意識のうちに
「良くないもの」として
抑え込まれがちです。


ですが、空海が遺したメッセージは、
現代の常識から見れば
誰もが耳を疑うほど、
圧倒的に突き抜けたものでした。



今日は、そんな空海の遺した視点を
ヒントにしながら、心の中にある
「表に見える感情と、その奥に眠る本音」、
引用されたお経が持つ
本当の優しさについて、
少しお話をしてみようと思います。




否定されがちな感情の、本当の姿



「欲望を肯定する」と聴くと、
何か道徳に反する過激な思想を
想像してしまうかもしれません。


しかし、空海が遺した視点は、
もっと深く、自然で、優しいものでした。


お経の中で説かれているのは、
人間が誰かを激しく愛し、欲し、執着し、
あるいは時にコントロールできないほどの
強い感情に突き動かされる瞬間のことです。


普通なら「そんな風に思ってはいけない」と
蓋をしてしまうような心の動きを、
空海はすべて
一点の澱みもない清らかなものである(自性清浄)」と
言い切っています。


それは綺麗事の全肯定などではなく、
人間の生々しい本能を17に解剖し、
その核心にあるエネルギーを一つ一つ
「大いなる清らかさ」として開示していく、
過激な哲学です。


そこには驚くべき過激とも捉えられる
思想が遺されています。


妙適清浄句(みょうちゃくしょうじょうく)
男女がぴったりと重なり合う恍惚の悦び、
その結びつきそのものが、
実は最も清らかな境地であるという視点。

欲箭清浄句(よくせんしょうじょうく)
対象を激しく求める、
心に矢が突き刺さるような衝動。
その渇望の源泉も、清らかであるという視点。

縛清浄句(ばくしょうじょうく)
相手を自分だけのものにしたいと強く願い、
お互いを縛り合ってしまう不器用さ。
その愛の束縛すらも、根源的には
清らかであるという視点。

暴悪清浄句(ばくあくしょうじょうく)
理性を失い、狂おしく荒々しい感情を
剥き出しにして貪り合うこと。
その「悪」とも呼べそうな
激しさの底にも、
神聖な生命の火が燃えているという視点。


空海は、これらの感情を
目に見える行為の善悪だけで測るのではなく、
その根底にある
生命力そのものに目を向けました。


世の中には、
「マイナスな感情はすぐに消し去って、
常に前を向きなさい」と
急き立てるような風潮があります。


そのため、多くの人が
「こんな風に悩むのはダメなのではないか」と、
名前のつかない息苦しさを抱えがちです。


ですが、人間は教科書のように
綺麗な感情だけで
生きているわけではありません。


誰かを羨ましく思ったり、
現状に焦りを感じたり、
言葉にできない寂しさを抱えたり。


そうした一見、不格好に見える
心の揺らぎや「濁り」こそが、
今を一生懸命に生きているという
何よりの証拠なのだと言えます。




泥棒や殺めの「貪り」も清らかと言えるのか?



ここで、一つの大きな哲学的な問いが
頭をもたげます。


理趣経が「貪ること(欲箭)や、
荒々しい暴悪さえも清らかなエネルギーだ」
とするならば、
世の中にある「泥棒をしたり、他者を殺めて
金品を奪ったりするような行為」もまた、
清らかなエネルギーの現れとして
肯定されてしまうのでしょうか。


ここが、この思想が歴史上、最も誤解され、
時に危険視されてきた最大の分岐点です。


しかし、空海の密教の視点は、
他者から奪うような行為を肯定していません。


むしろ、そのような生き方は
「せっかくの強大な生命力を、
致命的に使い間違えて自壊している哀れな状態」
であると解釈します。



理趣経が説く
「すべての衝動が清浄である」ための
絶対的な条件は、
「自分と他人の境界線が消え、
大いなる全体と繋がっていること」にあります。


外側へ広がるエネルギー

何かを表現したいという狂気的な渇望や、
相手を想うあまり自分を差し出すような衝動は、
個人の枠を飛び越えて、
世界を豊かにする方向へと広がっていきます。


内側へ閉じるエネルギー

泥棒や殺人を犯す人間の衝動は、
「自分だけがトクをしたい」
「自分だけが生き残りたい」という、
エゴ(自我)の狭い枠の内側へ向かう、
極めて閉鎖的なベクトルです。



どんなに凄まじい衝動であっても、
それを「自分の小さな損得勘定」という
コップに無理やり閉じ込めようとすれば、
コップは当然割れて、周囲を傷つけ、
自分自身も破滅させてしまいます。


それはエネルギーの量が多いのではなく、
方向が致命的に歪んでしまっているのです。


真に清らかな本能とは、
他者を踏みにじるものではなく、
自分という存在の枠を超えて、
生命の躍動そのものに
調和していく力のこと。


空海の見た「清らかさ」とは、
エゴを肥大化させるための免罪符ではなく、
むしろエゴの檻を打ち破るための
劇薬だったのだと考えられます。




表に出せない本音こそが、心を動かす表現になる



では、このエネルギーのベクトルの違いを、
今を生きる日常や、表現の場に
重ね合わせるとどうなるでしょうか。


日々の生活の中で、人間は無意識のうちに
「他人に迷惑をかけない姿」や
「誰から見ても正しい姿」を
演じようとしてしまいます。


そのため、心の内側にある
割り切れない思いや、
何かを強く求める渇望のようなものは、
隠してしまいがちです。



しかし、世間一般では
「手放すべき悪いもの」とされる
そうした強い感情は、
エゴのコップに閉じ込めるのではなく、
表現や創作という広大な世界へと
そのベクトルを向けてあげたとき、
唯一無二の輝きを放ち始めます。


「正しいか、間違っているか」
という二元論だけでバッサリと
切り捨てるのではなく、
その湧き上がってきた複雑な感情を
「あぁ、自分の中にこんなに
強い想いがあったんだな」と、
ただ静かに認め、心の中の静かな場所に
そっと置いておくこと。


その方が、ずっと人間らしくて
自然な姿ではないでしょうか。


なぜなら、人知れず抱えている
その「割り切れない心の揺らぎ」こそが、
その人にしか生み出せない表現の、
かけがえのない源泉になるからです。


ブログで言葉を綴ったり、
何かを新しく創り出そうとしたりするとき、
誰かが決めた正論や
綺麗な言葉だけを並べても、
誰の心も揺さぶることはできないものです。


人が本当に心を動かされるのは、
誰かが人知れず悩み、迷い、
その先で見つけた
「本音の響き」に触れたときです。


心の内側にある激しさや葛藤は、
決して恥じるべきものではなく、
エネルギーの方向を外側へと
開いていくことで、
命を燃やす燃料に変えていくことができます。




完璧さではなく、凸凹なままが噛み合う大きな調和へ



ここで、空海が遺した
「調和」というものの本質について、
もう一歩深い視点に
踏み込んでみたいと思います。


空海が曼荼羅(まんだら)などで
表現しようとした世界は、
一見すると、すべてが完璧に配置された
非の打ち所がないデザインのように
思えるかもしれません。


しかし、彼が説いたのは、
決して「人間としての凸凹や
不器用さを削ぎ落として、
綺麗な記号になりなさい」
という冷酷な教えではありませんでした。


むしろその真逆です。


空海が見つめていた宇宙の調和とは、
形の整った綺麗な石だけを並べた
コンクリートのような平坦さではなく、
トゲのある植物もあれば、
日陰にひっそり咲く苔もあり、
形の歪な巨石もあるような、
圧倒的な多様性をそのまま
受け入れる大きな器のことでした。


人間という存在は、どこまでも不完全で、
凸凹で、時にちぐはぐな
リズムを持っています。

音楽でいえば、誰もが心地よく乗れる
規則正しい4拍子ではなく、
どこか引っかかるような、
その人だけの独特なテンポを
刻んでいるようなものです。


空海の思想の深さは、
その「周囲のペースとは
決して合わない不器用な歩調」を、
宇宙の大きなリズムの一部として
そのまま認め、
噛み合わせようとした点にあります。


つまり、最初から完成された
完璧な調和ではないのです。


内側にある凸凹さや、
割り切れない歪さこそが、
この世界という大きな調和のなかに、
その人にしか作れない独自の居場所を
生み出す大切な要素になります。


それぞれの歪さを変に正そうとせず、
そのままの形でそこに在りながら、
全体としてなぜか心地よい響きを奏でている。


それこそが、空海の視点から
受け取ることができる、
人生という時間を整えていくための
本当の調和なのだと思います。




未来からの逆流──空海が最期に聴いた響き



空海がその生涯の最期、高野山で
永遠の瞑想(入定)に入るその瞬間まで、
弟子たちに読み上げさせ、
耳を傾け続けたのが
『理趣経』であったといいます。


彼がなぜ、これほどまでに
この経典を一番大切にしたのか。


その本当の理由は、
時間の捉え方のなかに
見えてくるような気がします。


時間は、過去から未来へと
一方通行で流れているように思えますが、
密教の、そして未来の視点から見れば、
実は「満ち足りた未来の姿」から、
今へと時間は逆流してきている。


空海という人は、すでにすべての
迷いや時空をくぐり抜け、
宇宙そのものとして微笑んでいる
「未来の境地」を、今ここで体感して
いたのかもしれません。


だからこそ、人間の生々しい欲望も、
割り切れない葛藤も、すべては
「未来の美しい大輪の蓮の花」を
咲かせるために、どうしても必要だった
豊かな土壌に過ぎないことを知っていた。


だからこそ、理趣経を最期まで愛し、
抱きしめ続けたのだと感じます。


過去の出来事や、自分の内側にある
割り切れない思いに悩み、
立ち止まってしまうとき。


もし、すべての答えを知って
穏やかに笑っている未来の自分が
今ここにいたとしたら、
現在の苦しみや迷いを、
一体どんな目で見つめるでしょうか。


植物の世界では、澄み切った
綺麗な水だけでは大輪の花を
咲かせられないことがあります。


泥が深ければ深いほど、
そこから栄養をたっぷりと含んだ
土壌があるからこそ、
そこから力を吸い上げて、
誰もが見惚れるような
美しい花を咲かせる性質があります。


今抱えているその名前のつかない葛藤や、
思い通りにいかない時間は、
未来に自分らしい花を咲かせるために、
あらかじめ用意された愛おしい道のり
そのものだと言えます。


過去が人を縛っているのではなく、
未来の光がその経験を必要として、
今、このプロセスを歩ませてくれている。


空海が『理趣経』の行間に込めたのは、
そんな時間をひっくり返すような、
圧倒的な全肯定の眼差し
だったのではないでしょうか。


内側から湧き上がるエネルギーは、
それがどんなに不格好で
激しいものであっても、
ただそれ自体が生命の躍動です。


そのエネルギーの方向を間違えず、
ただ静かに見つめていくとき、
その迷いの底には、
固有の澄んだ光が
いつでも静かに眠っています。



散歩の途中でふと見上げた空が、
いつの間にか新しい色に
変わっているように、
心にある強張りが、
少しでも優しく解き放たれますように。




 




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