観照録:自分を許さない人間の、静かなる変身 ――「それでいいんですね」という一言の深淵

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第一章 人間は、誰に許しを乞うているのか



人間という存在を長く見つめていると、
ときに、その不可解さに言葉を失い、
何か底知れぬ深淵を覗き込んでいるような、
奇妙な心地になることがあります。


誰からも禁じられていないはずのことを、
人はなぜか、自分自身に対してだけは
頑なに禁じている。


誰かが鍵を掛けたわけでもないのに、
そこには開かずの扉があり、
誰かに命じられたわけでもないのに、
その扉の前で立ち尽くしている自分がいる。


しかも、いつから
そこに立ち尽くしていたのかさえ、
もはや思い出せなくなっているのです。


物語を、奥底の呼吸から書き育てること。


絵を、心の赴くままに描くこと。


音を、感覚のままに響かせること。


誰かに理解されることなど望まず、
自分自身のささやかな感覚に根ざして、
静かに生きていくこと。


誰かの権利を侵すわけでもなく、
世界の秩序を破壊するわけでもない、
取るに足らないほど小さな表現や
生き方であるにもかかわらず、
その人自身にとっては、
どうしても越えられない
深い断崖のように感じられることがあります。


「こんなことをしていていいのだろうか」


「これが一体、何の役に立つというのだろうか」


「もっと意味のあること、もっと正しいこと、
誰かに認められる何かをなすべきではないのか」


その声は、必ずしも目の前にいる他者から
投げかけられたものではありません。


かつて誰かに言われた
言葉であったのかもしれず、
世間という名もなき群衆の囁きで
あったのかもしれず、
あるいは、幼い頃に自分自身を守るため、
いつしか身につけてしまった
生存の作法であったのかもしれません。


しかし、長い年月を経て、
それらはもはや他者の声としては
聞こえなくなり、
自分自身の内奥に深く沈殿し、
いつのまにか
自らの意志であるかのような貌をして、
静かに君臨し始めます。


他者から与えられた物差しが、
自らの骨格となってしまう。


他者の眼差しが、
自らの眼差しとなってしまう。


そして人間は、誰もいない場所でさえ、
誰かに見られているかのように
自分を裁き続けるのです。


いったい人は、誰に向かって、
自分自身であることを許してほしいと
請い願っているのでしょうか。


誰もいない開かれた野原で、
透明な檻の鍵を探し続けるという、
奇妙な逆説。


その檻は、外から眺めれば
どこにも存在しないように見えます。


しかし、そこに囚われている者にとっては、
石造りの牢獄よりも確かな重さを持っている。


もしかすると人間とは、自由を求めながら、
自らが自由であるという事実そのものに、
どこか耐えられない存在なのかもしれません。


そして自由というものは、
何でもできることの歓喜である以前に、
何をしてもよい自分を、
もはや誰のせいにもできなくなるという、
ひどく孤独な出来事でもあるのでしょう。




第二章 自分の内側に棲みついた、見えない裁定者



私たちは何かを始めようとするとき、
どうしても、そこに正当な理由を
用意しなければならないと
思い込んでしまいがちです。


それが仕事として成立するのか。

社会的に認められる価値を持つのか。


他者の役に立ち、目に見える成果を結び、
費やした時間に見合うだけの
何かを回収できるのか。


もちろん、現実の暮らしや
商いの場において、
こうした問いを無視することはできません。


私自身、長く商売の世界に
身を置いてきた人間ですから、
熱意や情熱という美しい言葉だけでは、
明日の暮らしも、共に働く人たちの生活も
守れないことは、
身に染みて知っているつもりです。


しかし、ここには一つの倒錯が
潜んでいるように思えてなりません。


本来、世の中に差し出したものが、
他者にとって
どのような価値を持つのかという問いと、
自らの内奥から湧き上がってくる何かを、
この世界に息づかせてよいのかという問いは、
まったく異なる位相にあるはずです。


ところが人間は、
いつのまにかその二つを混同し、
まだこの世に生まれてもいない
自分の小さな衝動にさえ、
社会的な正当性や経済的な有用性という
重たい審判を課してしまいます。


まるで、まだ土の中で眠っている
種子に向かって、
どのような花を咲かせ、
どれほどの実を結び、
誰の役に立つのかを、芽吹く以前に
証明せよと迫っているかのようです。


咲くことを許されるために、
咲いた後の価値を証明しなければならない。


その不条理に、私たちは驚くほど無自覚です。


そして、この見えない裁定者は、
必ずしも悪意を持っているわけでは
ありません。


むしろ、自分自身を守ろうとする善意や、
失敗したくないという慎重さ、
他人に迷惑をかけてはならないという
誠実さの中にこそ、
深く根を下ろしている場合があります。


正しくあろうとすること。

人の役に立とうとすること。

期待に応えようとすること。


その一つひとつは、
決して否定されるべきものではありません。


しかし、正しさが
生命を養うためのものではなく、
生命を裁くためのものへと変質したとき、
人は、自らを守るために築き上げた
秩序によって、自らの生を窒息させてしまう。


正しくあろうとするあまり、
生きていることの正しささえ疑い始める。


そこに、人間という存在が抱える、
逃れ難い悲劇の一つがあるように思います。


そして、その悲劇の最も厄介なところは、
自分を縛っているものが
自分自身の内側にあるため、
いくら外の世界を変えようとしても、
どこまでも同じ裁定者が
ついてくるということなのでしょう。


私たちは自由になるために、
新しい知識を求め、新しい技術を学び、
新しい自分へと生まれ変わろうとします。


しかし、その生まれ変わろうとする意志さえ、
いつしか自分を裁く
新たな物差しとなってしまう。


変わらなければならない。

成長しなければならない。

今の自分を超えなければならない。


かくして人間は、自らを解放するための
努力によって、
さらに自らを縛り上げていくのです。




第三章 「ゴジラ師匠でいいんですね」という、小さな事件



以前、ある陶芸家の方と、
こんなお話をしたことがありました。


その方は、自分には伝統的な系譜に連なる
師匠がいないこと、
正統な教えや技術の継承を受けていない自分が、
果たして本当の表現者と
呼べるのだろうかという、
静かな迷いを抱えておられました。


もちろん、陶芸という
長い歴史を持つ世界において、
師から弟子へと受け継がれてきた
技術や精神には、
容易に言葉へ還元することのできない
重みがあります。


何代にもわたる人間の手の記憶が、
土という沈黙の物質を通じて
受け継がれていく。


そこには、個人の才能や独創性などという
言葉では測りきれない、
悠久の時間が流れています。


しかし、その伝統への畏敬が、
いつしか自分自身の表現を
禁じる理由にまでなってしまうとしたら、
そこにはまた別の矛盾が生まれます。


その方のお話を聞いていると、
正統な系譜への憧れとは別に、
繰り返し顔を出す、
何やら奇妙な熱源がありました。


「私はずっと、ゴジラが好きで
たまらないんです」


ゴジラ。


日本の怪獣映画から生まれ、
破壊と哀しみ、畏怖と生命の奔流を、
その巨大な姿の内に抱え込んできた、
あの得体の知れない存在です。


考えてみれば、実に面白いことです。


正統な師を持たないことに悩みながら、
その方の内側では、何十年ものあいだ、
誰に命じられたわけでもなく、
誰に評価されるわけでもない、
ただ純粋に好きでたまらない何かが、
消えることなく燃え続けていたのです。


人間は、遠くに正統な源泉を探し求めながら、
自らを生かしてきた水脈が、
すでに足元を流れていることに
気づかないことがあります。


そこで私は、こんなことをお伝えしました。


「それなら、ゴジラこそが、あなたにとっての
師匠でいいのではないでしょうか。」


何か特別な指導をしたわけではありません。


その方の才能を見抜いたわけでも、
これから進むべき道を
論理的に示したわけでもありません。


ただ、長いあいだその方の中で
生き続けていたものを、
私も面白いと思い、
そのまま面白がっただけのことです。


すると、その方が、
ふっと何かの力みをほどくように、
こう呟かれたのです。


「……あ、私、ゴジラが師匠でいいんですね」


その言葉を聞いたとき、
私は何とも不思議な心地になりました。


いったい、その瞬間に
何が変わったのでしょうか。


新しい技術を修得したわけでもありません。


誰かから権威ある資格を
授けられたわけでもなければ、
世間から正式な承認を受けたわけでもありません。


何一つ増えていない。


何一つ保証されたわけでもない。


にもかかわらず、その方の内側では、
何かが確かに動き始めていたのです。


それまで「そんなことでいいはずがない」と
自分自身に禁じてきたものが、
禁じられなくなった。


いや、もっと正確に言えば、
禁じていたことそのものが、
どこか滑稽なものとして
見え始めたのかもしれません。


自ら築き上げた厳格な法廷に、
突然、一匹の怪獣が現れた。


そして、その怪獣は裁定者の言葉など
意に介さず、長い沈黙を破るように、
ただ咆哮したのでしょう。


私は、その情景を思い浮かべると、
今でも少し可笑しくなります。


人間が何十年も掛けて築き上げた理屈や
正統性の城壁が、
たった一言の「それでいいんですね」によって、
あっけなく崩れてしまうことがある。


それは決して破壊だけを
意味するものではありません。


崩れた城壁の向こう側には、
それまで見えなかった広い風景があり、
長いあいだ閉じ込めていた
自分自身の呼吸が、
ようやく外の空気に触れ始めていたのです。


何者かとして認められる以前に、
すでに自分を生かしていた何かがあった。


その何かへ、ようやく自分自身が追いついた。


私には、そんな小さな事件のように思えたのでした。




第四章 人は何かを獲得することではなく、脱ぎ捨てることで化ける



世間一般で語られる「自己実現」や
「成長」という言葉には、
どこか、何かをひとつずつ積み上げ、
欠けているものを補い、
より完成された自分へと近づいていくような
響きがあります。


知識を得る。

能力を磨く。

経験を積み重ねる。


昨日よりも今日、今日よりも明日へと、
絶え間なく自分自身を更新していく。


それはそれで、人間の営みとして
大切なものでしょう。


しかし、長く人間という存在に触れていると、
そうした直線的な成長の物語だけでは、
どうしても説明しきれない
変容に出会うことがあります。


その人が、ある日突然、
化けてしまうのです。


昨日までと同じ人間でありながら、
昨日までとはどこか違う。


持っている知識も、経験も、能力も、
それほど変わったわけではないのに、
言葉の響きが変わり、眼差しが変わり、
何より、その人を取り巻いていた
世界の質感そのものが、
微妙に変わってしまっている。


私は、そのような人間の変容を
目の当たりにするたびに、
成長とは本当に、
何かを獲得していくことだけなのだろうかと
思うのです。


むしろ、人間が内側から
大きく貌を変える瞬間というのは、
何かを付け足した結果ではなく、
それまで大切に積み上げてきた
「正しくあろうとする力み」が、
ふいに脱ぎ捨てられたときに訪れることが
あるのではないでしょうか。


自分はこういう人間でなければならない。

この程度の能力では、
まだ人前に出る資格がない。

他者から認められるには、
もっと立派な何者かにならなければならない。


そうした幾重もの衣をまとい続けるうちに、
人間は、自分自身の裸の輪郭さえ
見失ってしまいます。


しかも、その衣は必ずしも他人に
着せられたものばかりではありません。


自分で選び、自分で磨き上げ、
ときには誇りとさえ感じてきたものです。


だからこそ、脱ぐことが難しい。

失うことが怖い。


自分が自分であるために身につけたものを
脱ぎ捨てたとき、
果たしてそこに何が残るのか。


その問いの前に、
人は立ち尽くしてしまうのです。


しかし、何かを脱ぐことは、
必ずしも、何もかもを捨て去ることでは
ありません。


それまでの経験も、学びも、
苦悩も、失敗も、
すべてが無意味になるわけではない。


ただ、それらを自分自身の存在証明として
握りしめる必要がなくなったとき、
過去の一つひとつが、
それまでとは異なる響きを
持ち始めることがあります。


人間は、自分自身を証明することを
やめたとき、初めて
自分自身を生き始めることがある。


そして私は、この現象を
「本当の自分を発見した」という
言葉だけで片づけてしまうことにも、
どこか躊躇いを覚えます。


本当の自分。


その言葉は美しく、
どこか懐かしい安堵を与えてくれます。


しかし、果たして人間の奥底には、
いつか発見されることを待っている、
完成された真実の自己などというものが
存在しているのでしょうか。


もしかすると、自分自身とは、
発見されるべき固定された何かではなく、
絶えず生成し、変容し、
ときには昨日までの自分を裏切りながら、
なお自分自身であり続けようとする、
終わりのない運動なのかもしれません。


古い社殿を取り壊し、
新たな社殿へと神を遷しながら、
なお途切れることなく続いていく
神宮の時間のように。


同じでありながら、同じではない。

失われながら、失われない。


自分自身であることとは、
同じ姿を守り抜くことではなく、
変わり続けることを通じて、
何かを受け継ぎ続けることなのではないか。


私には、そのような「生涯遷宮」とも
呼びたくなる人間のあり方が、
どこかで響いているように感じられます。


そして、そこに現れてくる自分は、
必ずしも整った姿をしているとは限りません。


歪であったり、滑稽であったり、
人から見れば何の役にも立たないような、
奇妙な偏愛を抱えていることもあるでしょう。


それでも、その歪さを矯正することなく、
むしろ、その歪さを含んだまま
世界と響き合い始める。


化けるとは、
立派な何者かになることではない。


誰かが用意した理想の姿へ
近づいていくことでもない。


自分自身であろうとすることさえ
忘れたとき、思いもよらない自分が、
勝手に現れてしまう。


その不可解な生成のことを、
人は昔から「化ける」と
呼んできたのかもしれません。




第五章 自ら化けていくことを、ただ妨げない



人の営みを眺めていると、
思いがけない芽吹きが、
実にさまざまな場所に
潜んでいることに気づかされます。


それまで人の文章を整えることに
心を砕いてきた人が、
ある日、自らの物語を書き始める。


自分の描くものに
確かな名前を与えられなかった人が、
いつしか、自らの絵によって
世界と対話し始める。


何者かになろうとして彷徨っていた人が、
探検家という、
少し風変わりな呼び名を手にした途端、
それまで歩いてきた人生の道筋さえ、
一つの探検として見つめ直し始める。


そうした姿を見ていると、
人間という存在は、
外から与えられた設計図どおりに
育っていくものではないことを、
あらためて思い知らされます。


そこには、本人でさえ
予期していなかった何かがあり、
他者がどれほど巧妙に計画したところで、
思いどおりに生み出すことのできない
生命の動きがあります。


そもそも、人間が人間を育てるとは、
いったいどういうことなのでしょうか。


教えること。

導くこと。

能力を引き出すこと。


そのいずれも、
確かに必要な営みなのでしょう。


しかし、そこに
「私がこの人を変えてやる」という
意志が強く入り込んだ瞬間、
どこかに目に見えない支配の影が
忍び寄ってくるようにも思えます。


人を変えようとする善意が、
その人の変わり方を決めてしまう。


可能性を信じているつもりが、
いつのまにか、自分の思い描いた
可能性の範囲へ相手を閉じ込めてしまう。


自由に生きてほしいと願いながら、
その自由の行き先を、
知らず知らずのうちに指定してしまう。


これほど奇妙で、
これほど人間らしい矛盾もないのでしょう。


では、人間は他者に対して、
何もできないのでしょうか。


私は、そうとも思いません。


人は、ときに誰かの何気ない一言によって、
それまで何十年も閉ざしていた扉を
開いてしまうことがあります。


「それ、やりましょう」

「面白いじゃないですか」

「それでいいんじゃないですか」


たったそれだけの言葉が、
長い年月を掛けても動かなかった何かを、
ふいに動かしてしまう。


しかし、それは言葉を掛けた人間が、
相手の人生を
操作したということではありません。


むしろ、その言葉が届く以前から、
相手の内側には、
すでに何かが息づいていたのでしょう。


まだ仕事とも呼べず、才能とも呼べず、
夢という名前さえ与えられていなかった何か。


それが、ある出会いを境に、
少しだけ呼吸を始める。


そして不思議なことに、
そのような出来事は、
何かを変えようと
強く意図しているときよりも、
何気ない雑談や、思わぬ寄り道、
あるいは何の目的も持たない時間の中から
生まれてくることがあります。


私は、ここに「隙」というものの、
捉えどころのない奥行きを感じています。


隙とは、単に空いた時間や、
何もない余白のことではありません。


整然と組み上げられた自己の秩序に、
ふいに生じる小さな綻び。


意志や計画によって統御されていた世界に、
思いがけず吹き込んでくる、
名もなき風の通り道。


そこでは、何かを成し遂げようとする
主体の力が一瞬緩み、
主体の意図を超えた何かが、
静かに立ち現れ始めます。


もっとも、この隙さえも、
成果を生み出すために
意図的につくろうとした途端、
それはまた別の管理に
なってしまうのでしょう。


隙をつくろうとする意志が、
隙を塞いでしまう。


人間とは、どこまでも厄介な存在です。


だからこそ、他者との関わりにおいて
大切なのは、
人を化けさせようとすることではなく、
その人が自ら化けていく営みを、
いたずらに妨げないことなのかもしれません。


ただし、妨げないことと、
無関心であることは違います。


何も言わず、何もしなければ
よいということでもありません。


ときには背中を押し、ときには問いを投げかけ、
ときには厳しい現実を
伝えなければならないこともあるでしょう。


それでも、その人が
何者になっていくのかという
最後の領分だけは、
決してこちらの所有物にしない。


思いどおりに育てようとしない。


そして、こちらの予想を超えて
化けていく姿を、ただ面白がる。


人を育てるとは、その人が
こちらの理解を超えていくことを、
喜べるかどうかという
問いなのかもしれません。


そこには、支配によって形づくられる
秩序とは異なる、少し歪で、
しかし不思議な温もりを持った
和のあり方が、
静かに息づいているように思います。




第六章 許された魂は、現実の仕事といかに巡り合うか



しかし、自分自身に禁じていた
何かが解き放たれたからといって、
そこで物語が完結するわけではありません。


むしろ、そこから初めて、現実という、
容易にはこちらの思惑どおりにならない
世界との、長く複雑な対話が
始まるのだと思います。


自分の内奥から湧き上がってきた
衝動を許したからといって、
それがそのまま明日の暮らしを
支えてくれるわけではありません。


物語を書き始めたからといって、
その物語が誰かに読まれるとは限らない。


絵を描き始めたからといって、
その絵を必要とする人が現れるとは限らない。


まして、好きなことを仕事にするという
言葉の美しさだけでは、
厳しい商いの現実を
越えていくことなどできないでしょう。


私はそれでもなお、
そこに一つの決定的な違いが
生まれているように感じるのです。


それまで、何かを成し遂げるために、
自分自身を無理やり駆り立て、
正しい答えを探し、
外の世界に認められるだけの
何者かになろうとしていた人間が、
初めて、自分の内側から
生まれてきたものを携えて、
他者と出会い始める。


そのとき、仕事というものの質感が、
わずかに変わり始めるのではないでしょうか。


以前、何事も自力で覚悟を決め、
自らの意志で道を
切り拓かなければならないと
思い込んでいた方がいらっしゃいました。


しかし、その方のお話を聞いていると、
不思議なことに、
これまでの人生で物事が
自然に動き始めた場面には、
いつも他者からの誘いや、
思いがけない縁がありました。


自らが先頭に立って
道を切り拓くというよりも、
目の前に差し出されたものを受け取り、
その流れにしなやかに
身を委ねることで、
思いがけない場所へと運ばれていく。


その方は、
いわゆる自力の強さとは異なる、
実に豊かな「他力」の資質を
持っておられたのです。


にもかかわらず、本人は
それを自らの弱さや主体性の欠如と捉え、
もっと強い意志を持たなければならないと、
自分自身を責め続けていたのでした。


けれど、他力とは、
本当に自力の欠如なのでしょうか。


むしろ、自分の意志だけでは
決して辿り着くことのできない場所へ、
他者や偶然という
得体の知れない働きを通じて
運ばれていくことを、
引き受ける力なのではないでしょうか。


その方が占い師として、
自らのあり方を
見つめ直していったときにも、
似たような変化が起こりました。


何か特別な言葉を自分の内側から
絞り出そうとするのではなく、
目の前にあるカードが映し出す情景を、
そのまま他者との間に差し出していく。


自分が正しい答えを
与えなければならないという
重たい自我を挟まず、
カードという媒介を通じて、
その人がまだ言葉にできない何かに
耳を澄ませていく。


自らが何者かになろうとする
力みを緩めたとき、
かえってその人らしい呼吸が戻り、
占いという営みが、
他者との生きた関係として
息を吹き返していったのです。


私はこのような姿を見ていると、
自力と他力というものもまた、
単純な対立としては
捉えられないように思えてきます。


自力を捨てれば
他力になるという話ではありません。


他力に身を委ねるということもまた、
自分の思惑を超えた出来事を
引き受けるという、
ある種の覚悟を伴うものなのでしょう。


自らを主張することでしか
存在を証明できないと思っていた人間が、
自らを空け渡すことによって、
かえって他者との間に
確かな存在感を生み出していく。


満たそうとすることで失われ、
空になることで満ち始める。


そこには、理屈だけでは捉えきれない、
人間の営みの逆説が潜んでいます。


そして私は、このような逆説の中に、
商いというものの
原初的な姿を見出すことがあります。


商いとは、単に市場の需要を探し当て、
そこに商品やサービスを供給するという
技術だけではないでしょう。


かといって、自分の好きなものを
好きなように表現していれば、
いつか誰かが理解してくれるという、
美しい幻想でもありません。


自らの内側から生まれたものが、
他者という決して自分の思いどおりには
ならない存在と出会い、
ときには拒まれ、
ときには思いがけない形で受け取られ、
その往還の中で少しずつ姿を変えながら、
社会の中に居場所を見つけていく。


そこには、お金も、責任も、技術も、
失敗も、喜びも、避けることのできない
現実として存在しています。


そして、そこで初めて、
自分だけのものだった小さな火種が、
誰かの生命を温める火へと
変わっていくことがある。


仕事とは、自分自身の内側にあったものが、
自分自身の所有物ではなくなっていく
過程なのかもしれません。


自分だけの念いであったものが、
他者の人生の一部となり、
思いがけないところで
別の生命を育て始める。


そうして巡り始めたものは、
もはや最初にそれを生み出した
人間だけのものではありません。


そこに、所有や支配とは異なる、
静かな富の循環が生まれてくる。


私は、仕事というものを、
そのような生命と生命のあいだに生じる、
終わりのない交感として眺めてみたいのです。




第七章 「それでいいんですね」の先へ



「それでいいんですね」


あらためて、この一言に
立ち返ってみたいと思います。


最初に耳にしたとき、
それは、誰かからの承認や許可を求める、
ささやかな呟きのように聞こえました。


しかし、ここまで人間の不可解な変容を
辿ってくると、
その言葉は、初めに聞こえたものとは
少し異なる、複雑な響きを帯び始めます。


そもそも、誰が誰を許すのでしょうか。


自分自身であることを、
他人が許すことなどできるのでしょうか。


あるいは、
自分が自分自身を許すということさえ、
どこか奇妙な言い回しなのかもしれません。


なぜなら、許すという行為には、
許す者と許される者という、
二つの立場が必要になるからです。


自分を許そうとする自分。

そして、自分から許されることを待っている自分。


その二つに分裂した自己の姿を思い浮かべると、
私はそこに、人間という存在が抱える、
もう一つの深い矛盾を感じずにはいられません。


自分を縛っていた裁定者から
自由になろうとしながら、
今度は自分を許す裁定者になろうとしている。


それでは、結局、同じ法廷の中で、
判決だけを書き換えていることに
ならないだろうか。


有罪から無罪へ。

禁止から許可へ。


そもそも、自分自身の生を裁く法廷など、
最初から必要だったのだろうか。


あの陶芸家の方が、
「ゴジラが師匠でいいんですね」と
呟かれたとき、私は、
その方に何かを許したわけではありません。


許す権限など、
私には最初からなかったのです。


ただ、その方の内側に
長いあいだ息づいていたものを、
私も面白がった。


それだけのことでした。


そして、おそらく、その瞬間に起こったのは、
誰かから許可を与えられたという
出来事ではなく、
許可を求めなければならないと
思い込んでいた世界そのものが、
一瞬だけ崩れたという
出来事だったのではないでしょうか。


人間は、自分が信じてきた世界の秩序が
崩れることを恐れます。


たとえその秩序が、
自分自身を苦しめるものであったとしても、
長く慣れ親しんだ不自由には、
不自由なりの安堵があります。


自分はこういう人間である。

自分にはこれができない。

自分には、まだ資格がない。


そうした自己規定は、
ときに自らを閉じ込める檻であると同時に、
得体の知れない未来から自分を守る
城壁でもあるのでしょう。


だからこそ、
人は簡単には変わることができません。


そして、変わることができない自分を責め、
さらにその城壁を高くしてしまう。


ところが、あるとき、
何かの拍子に、
ふっと風が吹くことがあります。


長いあいだ閉ざされていた扉が、
誰の意志によるともなく、
ほんの少し開いてしまう。


その隙間から差し込んできたものは、
必ずしも明るい希望の光とは限りません。


むしろ、それまで自分を守ってきた
確かな輪郭が失われ、
これから何者になっていくのかもわからない、
深い不確かさであることもあるでしょう。


自分自身であることを許すということは、
必ずしも楽になることではありません。


それは、ときに、
それまで自分自身を守ってきた
正しさを手放し、
何の保証もない未来へと、
自らを差し出していくことでもあります。


そこには、喜びと同じくらいの怖さがあり、
解放と同じくらいの孤独があります。


それでもなお、
人はある瞬間、化けてしまう。


化けようとしたわけでもないのに、
化けてしまう。


そして、化けたと思ったその姿さえ、
いつかまた、次の自分へと移ろっていく。


その終わりのない生成の中で、
私たちは何度も自分自身と出会い直し、
何度も自分自身を見失い、
そして何度も、まだ知らなかった自分の声を
聞くことになるのでしょう。


考えてみれば、
人間は何とも不思議な存在です。


自分自身を知りたいと願いながら、
自分自身を知り尽くしてしまうことを、
どこかで恐れている。


自由を求めながら、
自由になった自分を持て余している。


何者かになろうと懸命に生きながら、
何者かになってしまうことを、
ひそかに拒んでいる。


そして、そうした矛盾を抱えたまま、
なお生き続けている。


私は、この人間という不完全で、歪で、
どこまでも不可解な存在に、
どうしようもなく惹かれてしまいます。


人は、完成するために生きているのでしょうか。


それとも、完成することのない自分自身を、
どこまでも生き続けるために、
この世界へ投げ出されてきたのでしょうか。



ただ、人がふいに化け始める瞬間に立ち会うたび、
私は、そこに何か途方もなく古く、同時に、
まだ誰も見たことのない
新しい生命の営みが、
静かに息づいているように感じるのです。


それは、何かを獲得した者の勝利でも、
何かを成し遂げた者の完成でもありません。


長いあいだ自分自身に禁じてきたものが、
禁じられていたことさえ忘れて、
ただ生き始める。


名もなきものが、
名を持つ以前の姿のまま、
世界へと滲み出していく。


その姿は、整ったものでも、
立派なものでもなく、
ときには滑稽で、歪で、
どこか哀しみさえ帯びているのでしょう。


だからこそ私は、その歪さの中に、
人間の生命が持つ、
何ものにも代え難い美しさが
あるように思えてなりません。


そして、あの一言が、
また遠くから聞こえてくるのです。


「……それでいいんですね」


誰かに許しを乞うようにも。

自分自身に問いかけるようにも。


あるいは、そのどちらでもない、
もっと遠く、もっと深い場所から、
長いあいだ自分自身を待ち続けていた何かが、
ようやく声を発したかのようにも。


その声の主が誰なのか、
私にもまだ、よくわかりません。


ただ、誰もいないはずの透明な檻の内側で、
いつからか聞こえなくなっていた
生命の微かなざわめきが、
再び鳴り始めている。


そして、そこにはもう、
鍵を探している人間の姿はありません。


檻が消えたのか。

それとも、最初から檻などなかったのか。


そのことさえ、もはや、
どうでもよくなっているのかもしれません。


ただ風が通り抜けていく。


まだ、何ものにもなっていないものたちのあいだを。


静かに。


そして、確かに。






 




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未来型という、少しへんてこりんな凸凹の学び舎ーー未来型夢の降るみち。




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