欠落の美学とシラスの精神 ——効率至上主義の果てに、日本人が取り戻すべきもの

先日、NHKの番組 ジャポニズム を観ていて、静かな確信が胸に降りてきました。
いま、世界は日本の「時代劇」や伝統文化を、単なる異国趣味としてではなく、
一つの文明的回答として深くリスペクトし始めている、という事実です。
それは懐古ではありません。
むしろ、近代合理主義が極限まで進んだ果てに、
人類が「失ってきたもの」を、ようやく言葉にできる段階へ入った──
その徴(しるし)のように感じられました。
「すべてを明るみに出す文明」の行き詰まり
現代社会は、あらゆるものを白日の下に晒します。
数値化し、可視化し、効率という物差しで切り分ける。
速さ。
正しさ。
成果。
それらは確かに文明を前に進めました。
しかし同時に、人の営みから「影」を奪ってきたのも事実です。
影とは、
曖昧さであり、
ためらいであり、
未完成のまま息づく余白です。
日本文化が世界から再発見されている背景には、
この「影を許容する知恵」への、
深い渇望があるのではないでしょうか。
シラスという統治哲学と、「誇り」の労働
日本の古い言葉に「シラス(治す・知らす)」があります。
それは「ウシハク(領有し、支配する)」とは、
根本的に異なる統治観です。
民を私有物として扱うのではなく、
それぞれが尊厳をもった存在として“在る”ことを認める。
古墳や城郭の造営に携わった人々の胸にあったのは、
強制ではなく、
「自分の技を、この場に差し出す」という誇りだったはずです。
この精神は、聖徳太子 が遺した
「和を以て貴しと為す」という言葉に、
最も端的に表れています。
和とは、衝突を避けることではありません。
魂が、それぞれの持ち場で最も輝く配置を見出すこと。
それが、日本的な共創の原型なのです。
陰翳礼讃 —— 不完全さの中に宿る宇宙
日本文化の核心を語るとき、
谷崎潤一郎 の『陰翳礼讃』、
そして 岡倉天心 の『茶の本』は避けて通れません。
彼らが見つめていたのは、
「欠けているからこそ、想像が立ち上がる」
という真理でした。
浮世絵や漫画に見られる、省略とデフォルメ
完璧な円ではなく、欠けた月を愛でる感性
新品よりも、使い込まれ、時を含んだ道具への眼差し
それらはすべて、
完成よりも、生成の途中に宿る命を感じ取る力です。
効率化の名のもとで
「遅い」「無駄」と切り捨てられてきた繊細さ。
実はそこにこそ、
仕事や表現に魂が宿るための不可欠な時間が含まれているのです。
「秘すれば花」という、生き方の美学
現代は、発信の時代です。
語ること、見せること、主張することが
評価されます。
けれど日本には、
大切なものほど、あえて語らず、
静かに育てるという知恵があります。
—— 秘すれば花。
祈り。
信念。
誰にも言わない決意。
それらを無理に説明する必要はありません。
言葉にしないからこそ、
その人の佇まいに、深い影が落ち、
気品が生まれる。
人格とは、語られなかったものの
総体なのかもしれません。
西洋科学と東洋精神の「和合」へ
私たちが目指すべきは、過去への回帰ではありません。
また、科学や合理性を否定することでもありません。
必要なのは、
西洋的な「切れ味」を持ったまま、
それを振るう手に、和と慈しみを宿らせること。
科学という刀を持ちながら、
花を傷つけぬ距離感を知っている文明。
それが、
これからの日本が世界に差し出しうる、
未来型の文化像ではないでしょうか。
結び —— 自分自身と、睦まじく生きる
「和(やわ)らぎ、睦(むつ)まじく」。
この言葉は、
他者との関係以前に、
自分自身との関係を問うているように思えます。
速さを求める社会の声と、
丁寧でありたい自分の心。
その間に生まれる揺らぎを、
排除せず、裁かず、ただ共に在らせること。
「遅い」と言われる自分の繊細さを、
せめて自分だけは、誇りとして抱くこと。
その内なる和合があってこそ、
私たちの手仕事や言葉には、
効率を超えた静かな美が宿ります。
誰に見せるためでもない、
自分の中にだけ灯る「和」。
それこそが、この時代を凛と生き抜くための、
最も確かな拠り所なのだと、
私は信じています。
内気で自信なく不安なあなたへ














