実存の荒野からご縁の還流へ――サルトルを超え、世界の歪みを抱きしめる「未来型」の覚悟

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ジャン=ポール・サルトルの実存主義と、
私自身の歩みが静かに溶け合っていくような、
一つの魂の対峙記録を残しておきます。


一人の人間が、実存主義という
冷徹な鏡に己の姿を映し出し、
そこから独自の生の哲学、
すなわち「未来型」の視点へと
至るまでの軌跡を記しています。




1. 荒野に突き放す哲学と、孤独な「投企」



「人間は自由という刑に処せられている」


ジャン=ポール・サルトルが遺した
この言葉は、甘えを一切許さない冷徹な響きを
持っています。


私たちは、あらかじめ決められた
取扱説明書(本質)を持たずに
この世にポツンと生み出され(実存)、
その後に自らの選択と行動によって、
自分を定義していかなければなりません。


サルトルはこれを「実存は本質に先立つ」と
言い表しました。


過去の環境がどうであれ、
今この瞬間から未来をどう生きるかは
100%自分の責任となる。


自らを未来に向かって投げかける
「投企(とうき)」の連続だけが、
己の存在を証明するのです。


この思想は、自立して生きようとする者を
激しく鼓舞しますが、
同時に「すべての結果は自己責任であり、
言い訳は通用しない」という、
逃げ場のない孤独の荒野に人間を突き放す
ものでもあります。



私もまた、かつてその荒野の真ん中に立ち、
張り詰めた緊張感の中で
「自分でなんとかしなければならない」と
もがいていた一人でした。




2. 孤独な決断の先に現れた「翻訳者」と「インフラ」



しかし、私の人生のステージが本当に
変わった瞬間を振り返ると、
そこにはサルトルの言う
「孤高の投企」だけでは説明のつかない、
もう一つの優しい世界の仕組みが
働いていました。


最初の転機は、大学受験の失敗でした。


失意の底で、私は自らの意志で
「京都に行こう」と決意しました。


誰かに強制されたわけではありません。


まさに孤独な「未来への投企」です。


一人で戦う覚悟を決めて一歩を
踏み出したとき、その孤独の先で、
代々木ゼミナールの或る先生との
奇跡的な出会いが用意されていました。


その先生が教えてくれたのは、
それまでの常識を根底から覆す

「勉強とは、必死に机にかじりついて
暗記するものではない。
ただ教科書を眺めて、体内に
インストールするものだ」


という知見でした。


この出会いによってパラダイムが反転し、
結果として大学合格という道が
ひらけたのです。


また、多額の借金を抱え、
泥を這いつくばるようにして
ブログを始めたときも同様でした。


数字という客観的事実だけを見れば、
アクセスは完全に鳴かず飛ばず。


無価値な「失敗」や「無駄な時間」にしか
見えない暗闇の中で、私はただ淡々と、
不器用な足跡をネットの海に残し続けました。


すると、奇妙な逆流が起こり始めたのです。

その「鳴かず飛ばずの時間を耐えて
書き続けていた」という歪な軌跡そのものが、
他にはない私だけの独自のエネルギーとなり、
後々になって、かけがえのない仲間や
ご縁を引き寄せる強力なインフラへと
変容していきました。




3. 実存主義プラス「未来型」という融和(歪な和)



自分で覚悟を決めて一歩を踏み出す(実存主義)。


しかし、その瞬間に世界の水面には
波紋が広がり、こちらの想像を超えた形で、
必要な環境や他者とのご縁が結ばれていく。
(未来型)

この二つが掛け合わさったとき、
人生の道は自動ドアのように
自然とひらかれていきます。


サルトル(実存):
「京都に行く」「ブログを書く」と、
一人で腹をくくる覚悟。


未来型(循環):
その覚悟に呼応するように現れる、
代ゼミの先生や、のちに繋がる
仲間という、大いなる連鎖。



自分で人生を切り拓いているようでいて、
実は、覚悟を決めた瞬間に
「世界から祝福され、導かれている」のです。




4. 逆説の深化――「おかげ」を受け取ることで、すべてが我が責任となる



しかし、物語はここで終わりません。


この「未来型」の調和をさらに一歩進めたとき、
私たちは一見すると奇妙な、
しかし深く美しい逆説(パラダイムシフト)に
直面することになります。


それは、

「ご縁のおかげを心から受け止めるほどに、
逆に一見すると自分とは
まったく関係のないはずの遠くの出来事や、
他者の痛みまでもが、なぜか自らの責任
として胸の奥に静かに灯るようになる」

という境地です。


世間一般の効率主義や損得勘定で
生きている間は、「自分に関係のないことは、
自分の責任ではない」と線を引くのが
正解とされます。


責任を背負い込むことは、
コストでありリスクだからです。


しかし、ひとたび大いなるご縁の恩恵という
「おかげ」を心で受け取ると、
私たちは九字でいうところの【徳】と【誠】の
巡りへと足を踏み入れます。


「これほど豊かな心や、
目に見えない恩恵をいただいて、
私は今ここに生かされている。
ならば、この世界で起きているすべての
歪さや他者の痛みに対して、私もまた、
その一部を担う一人として応答する責任が
あるのではないか」


これは誰かに強制された義務ではありません。

内なる悲しみのエネルギーが優しく震え、
自発的に世界を抱きしめようとするときに
湧き上がる、極めて能動的な覚悟なのです。


それは世界を救わなければならないという
犠牲ではなく、あまりの恩恵の温かさに、
世界のすべてを我がことのように
愛おしく思えてしまうという、
隠者の幸福な覚悟にほかなりません。




5. 結び:もがきと揺らぎのなかで、未来からの逆流を観照する



……と、ここまで少し達観したかのような
深い「責任」の境地を語ってまいりましたが、
実際の私は、決してそんな澄まし顔の
聖人君子ではありません。


今でも日々の暮らしのなかで、
不器用に心がもがくことは日常茶飯事ですし、
感情が激しく昂ったときには、
他者のせいにしたくなる格好悪い自分だって、
普通に顔を出します。


内なる葛藤や怒りや悲しみに
狂おしいまでの後悔が暴れ、
静寂を失う瞬間など、
数え切れないほどあるのです。


けれど、それでいいのだと今は思っています。


他責になってしまう自分を「未熟だ」と
責め立てながら水に流そうと。

一人で泥水をすする
清貧の苦しみに身をよじるのではなく、
ひとしきり心が揺れたあと、
お茶でも啜りながらしばらく佇んでいると、
不思議なほど自然に、
その尖った気持ちはどこかへ
消えてなくなっていくものです。


過去の因果関係だけで考えれば、
「なぜ自分が他人のことまで……」と
疲弊してしまいますが、
未来型の視点は常に【未来からの逆流】に
あります。


完璧になれない自分、歪みをもったまま
生きる世界
――そのすべての凸凹を我が責任として、
まるごと「私の庭の風景」として包み込んだ、
遥か先の未来の理想の光景を縁側から、
今のこのもがきを眺めてみるのです。


すると、その一見重たかったはずの
「全責任」は、自分を縛る鎖ではなく、
世界と自分を繋ぐ最も太く温かい
「隠者の重力」そのものであったことに
気づかされます。




未来型の鏡と観照する、さらなる逆説



サルトルは「他者は地獄だ」と言い、
人間を孤独な自由へと突き放しました。


しかし未来型においては、
「ご縁という他者(おかげ)を
完全に受け容れることこそが、
最も純粋で逃げ場のない
『自己責任(実存)』へと
人間を回帰させる」という逆説が
成り立ちます。


完全に委ねる(他力)ことのなかに、
究極の自立(自力)が宿る。


しかしそれは、いつでも他責に
揺らいでいいという、
果てしなく緩やかな、
愛おしい「歪な和」のインフラなのです。


孤独に自立する覚悟を持つ者だけに、
独りでは絶対にたどり着けなかった
「温かいご縁の循環」が向こうからやってくる。


もがきながら、他責に揺れながら、
それでもしばらくすればまた
「静もりの庵」へと還っていく。


そんな13.5拍子の創造的で
緩やかなリズムが、今日も縁側に、
儚くも美しく響き渡っています。



 




ーーーーーーーー
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世間の騒音を離れ魂を灯す。黙で生む黄金のご縁の隠れ庵。未来型夢の降るみち。




山籠り重力を分かち合う、もう一つの物語。引きこもりの千聖が贈る言霊の調べ




 

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