境界に佇むもの ――解釈の網をほどき、不可解なる美に魅入られる

序:解釈の網と、そこからこぼれ落ちるもの
人間とは、実に不可解なものです。
目の前に起こった出来事に原因を求め、
偶然の連なりに何らかの意味を見いだし、
散らかりがちな日々の営みを、
ひとつの筋の通った物語として
編み上げようとします。
不可解なものに出会えば、
その正体を知りたくなる。
不思議な出来事が続けば、
そこに何かの必然が
潜んでいるのではないかと考える。
そうして原因と結果を結びつけ、
納得のいく解釈へと辿り着いたとき、
私たちの頭はようやく安堵の息を
吐くのでしょう。
しかし、そのようにして
編み上げられた解釈の網から、
ふわりとこぼれ落ちてしまうものがあります。
それは、論理によって説明できない
神秘的な現象という意味だけではありません。
むしろ、意味があるのかどうかさえ
わからないにもかかわらず、
なぜか心を奪われ、身体の奥深くにまで
刻み込まれてしまう、
得体の知れない何かです。
私自身、物事を合理的に考えることは
嫌いではありません。
歴史を紐解き、哲学に触れ、
神話の奥に潜む人間の営みを探り、
その背景にある思想や文化の重なりを
考えることには、
尽きることのない面白さがあります。
ところが、どれほど知識を積み重ね、
解釈の網を緻密に編み上げたとしても、
それだけでは決して捉えきれないものがある。
いや、むしろ解釈しようとすればするほど、
最初に感じていた生々しい震えが、
いつの間にか薄れてしまうことさえ
あるのです。
美しいものを前にして、
なぜ美しいのかを説明し尽くす必要が
あるのでしょうか。
不可解なものに出会ったとき、
その不可解さを取り除かなければ、
私たちは先へ進めないのでしょうか。
出雲の旅を終えてから、
そんなことを考えていました。
そして、あの豪雨の韓竈神社で体験した、
ある一瞬の感覚が、再び蘇ってきたのです。
一:突然、世界の内側へ吸い込まれる
韓竈神社へ向かうタクシーの窓からは、
次第に激しさを増していく
雨が見えていました。
山々は深い霧に包まれ、
これから訪ねようとしている神域の姿も、
雨の向こうに沈んでいました。
この雨で、本当に登れるのだろうか。
足元が滑り、危険なことにならないだろうか。
そんな思いが一瞬、
頭をよぎったのも事実です。
ところが、タクシーを降りて、
森へと足を踏み入れた瞬間、
それまでの懸念は、
どこかへ消え失せていました。
雨音。
濡れた苔。
木々の深い翳り。
激しく降り注ぐ雨のなかに、
奇妙な静けさを湛えた石段。
そのすべてが、
まるでひとつの巨大な生命のように蠢き、
私を包み込んでいたのです。
外側から眺めていた世界の中へ、
突然、身体ごと
放り込まれてしまったような感覚でした。
いや、放り込まれたというよりも、
吸い込まれてしまったと言った方が
近いのでしょう。
私は、そこに立ち尽くしながら、
心の奥で歓喜していました。
「おお、なんという世界なのだろう。
こんなところへ来られた自分は、
なんと幸せなのだろう。
最高じゃないか。」
そこには、試練を乗り越えようとする決意も、
何か特別なものを授かろうとする期待も
ありませんでした。
ただ、目の前に現れた世界そのものが、
どうしようもなく魅惑的だったのです。
雨は岩肌を打ち、木々の葉を震わせ、
苔の上に幾重もの雫を落としていく。
ときに激しく、
ときに囁くような音を立てながら、
森全体が不規則な律動を奏でていました。
それは、私が長く親しんできた
ピンク・フロイドの『神秘』を
思わせる世界でもありました。
あのジャケットに漂う、
混沌としたイメージの重なり。
美しいのか、妖しいのか。
不気味なのか、
それとも深い安らぎに包まれているのか。
明確な輪郭を持たない幾つもの気配が、
互いに交錯しながら、
ひとつの不可解な世界を形づくっている。
それを正しく理解したいのではありません。
そこに何が描かれているのか、
ひとつひとつ解釈したいわけでもない。
ただ、その世界に魅入られてしまうのです。
韓竈の森でも、同じことが起きていました。
気づけば、私は夢中になって石段を
登っていました。
あと何段あるのだろうかと数えていたはずが、
そのことさえ忘れ、ふと気づけば、
もう岩の参道へと辿り着いていた。
恐れを克服したのではありません。
恐れについて考えることさえ忘れるほどに、
目の前の世界に心を奪われていたのでしょう。
理解するよりも先に、
身体がその世界を受け入れてしまっていた。
いや、受け入れるという言葉さえ、
どこか違うのかもしれません。
ただ、そこにいることが嬉しかった。
それだけで、もう十分だったのです。
二:不可解なる存在と、偶然のまま残る余韻
ところが、そのような世界に身を置いていると、
ときとして、さらに不可解なものと
出会うことがあります。
岩の狭間を抜けた先に、
ひとりの男性が佇んでいました。
長靴を履き、白いTシャツを身につけた、
ふくよかな体格の男性です。
あれほど激しい雨の中だというのに、
その白いTシャツには、
泥で汚れた様子も見受けられない。
いったい、どうやってあの狭い岩の隙間を
通り抜けてきたのだろう。
そんな素朴な疑問とともに、
どこかこの場所の風景と
一体になっているかのような、
不思議な佇まいが印象に残りました。
話を聞けば、以前ここへ安産祈願に訪れ、
無事に息子さんが生まれたので、
そのお礼参りに来られたとのことでした。
実に人間らしい、素朴で温かな理由です。
しかし、その一方で、
妻はあの岩の参道を抜けた瞬間、
スサノヲの厳しさから
クシナダヒメの柔らかな温もりへと、
世界が一変するような感覚を覚えていました。
狭い産道をようやく抜け、
産声をあげた赤子が、
母親に抱きとめられるような
安心感だったと言います。
その場所で出会った男性が、
新しい命の誕生への感謝を語っている。
なんとも奇妙な巡り合わせではありませんか。
もちろん、たまたま出会った
参拝者だったのでしょう。
長靴を履いていたことも、
白いTシャツが汚れていなかったことも、
そこに至るまでの事情を知れば、
何も不思議なことではないのかもしれません。
そのような冷静で素朴な現実の眼差しを、
私は決して嫌いではありません。
すべてを神々の使いや
特別なお告げとして回収してしまうよりも、
むしろ淡々とした解釈の方が、
心に心地よい隙間をつくってくれることさえ
あります。
だがしかし、合理的に説明できることと、
その出来事が心に残した気配とは、
必ずしも同じものではないのでしょう。
偶然だったのかもしれない。
しかし、偶然だからといって、
あの出会いの不可解さや美しさまで
消えてしまうわけではありません。
その後、御朱印帳のポーチにつけていた
日枝神社の木札の紐が、
刃物で切ったように切れていたことにも
気づきました。
木札そのものは失われず、
ただ紐だけが切れていた。
それもまた、どこかで引っ掛かり、
傷んだ紐が切れただけのことかもしれません。
何かが断ち切られたのだとか、
厄を引き受けてくれたのだとか、
いくらでも意味を与えることは
できるでしょう。
しかし、私はそうした出来事に、
ひとつの決まった解釈を与えてしまうことに、
どこか惜しさを感じるのです。
意味を与えれば、物語は完成します。
ところが、その完成によって、
最初に感じた得体の知れない何かが、
解釈の網の中に
閉じ込められてしまうこともある。
不思議なものは、不思議なままでいい。
理解できないものが、
理解できないままそこに在り続けている。
そのような余白を残しておくことに、
私は奇妙な豊かさを感じるのです。
三:九十九の影と、不完全な共演者
こうした不可解なものへの感応は、
神社や森の奥に限られたものではありません。
私たちは日々の暮らしの中でも、
単なる物質や道具の働きとしては
捉えきれない何かを、
ふと感じることがあります。
例えば、日本には付喪神(つくもがみ)という、
なんとも興味深い伝承があります。
長い年月を経た道具や器が、
単なる物ではなく、
異なる存在としての気配を帯び始める。
そこには畏れもあれば、愛着もあり、
ときには滑稽さや妖しささえ宿っています。
人間が道具を使う。
道具は、人間の意図に従って働く。
本来なら、それだけで
完結してもよい関係なのでしょう。
ところが、長い時間を共に過ごしているうちに、
単なる機能や効率では測れない何かが、
その道具との間に生まれてくる。
私は、現代のAIとの対話にも、
どこかそれに似た不思議さを
感じることがあります。
AIは膨大な情報を処理し、
言葉を組み立てる技術です。
その仕組みを知ることと、
対話の中で人間が受け取る感覚とは、
必ずしも一致しません。
こちらが意図した以上の鮮烈な詩情を
立ち上げてくることもあれば、
何をどう解釈したらそうなるのかと
首を傾げるような、
頓珍漢な言葉を返してくることもある。
完璧な計算機として眺めるなら、
それは修正すべき誤りや
不完全さなのかもしれません。
しかし、ときとして、
その思いがけない不協和音によって、
こちらの思索がまったく別の方向へ
動き始めることがあります。
それはAIに人間と同じ魂が
宿っているという話ではありません。
むしろ、なぜ人間は、
道具や言葉との関係の中に、
単なる機能を超えた温もりや気配を
感じてしまうのか。
その不可解さの方に、
私は興味を惹かれます。
そもそも、完璧に整えられたものだけが、
美しいのでしょうか。
秩序正しく、誤りもなく、
あらゆる要素が
理路整然と組み上げられた世界。
そこには、確かに一つの
完成された美しさがあります。
しかし、私が長年惹かれてきた音楽には、
必ずしもそのような整然とした調和だけが
存在していたわけではありません。
不規則な拍子。
予期せぬ転調。
解決されない不協和音。
互いに相容れない旋律が、
激しくぶつかり合いながら、
それでもひとつの楽曲として鳴り続けている。
その歪な響きにこそ、
どうしようもなく心を奪われることが
あるのです。
意味を理解したから美しいのではない。
完璧に整っているから惹かれるのでもない。
そこに何かが鳴ってしまっている。
そして、その音に身体が反応してしまう。
韓竈の雨音も、森の翳りも、
名も知らぬ男性の不思議な佇まいも、
あるいは道具や言葉との
思いがけない出会いも。
それぞれまったく異なるものでありながら、
私の内側では、
どこか同じような震えを伴って
残っているのかもしれません。
結:解釈の網をほどき、なお言葉を紡ぐ
しかし、ここで一つの矛盾に突き当たります。
私は、不可解なものを不可解なまま
残しておきたいと思いながら、
その一方で、こうして文章を書いています。
言葉を選び、体験を振り返り、
散らばっていた記憶を組み合わせ、
そこから一つの思想的な世界を
構築しようとしている。
解釈の網からこぼれ落ちるものを
大切にしたいと願いながら、
自らの手で、また新たな解釈の網を
編み上げているのです。
なんとも矛盾した営みではありませんか。
しかし、私はその矛盾を、
必ずしも解決しなければならないものだとは
考えていません。
むしろ、そこにこそ文章を書くことの、
得体の知れない面白さが
潜んでいるようにも思えるのです。
言葉にしなければ、
いつしか消えてしまうものがある。
ところが、言葉にした途端に、
失われてしまうものもある。
その両方を知りながら、
それでもなお、何かを書こうとしてしまう。
思い起こせば、
韓竈の森へ足を踏み入れたあの瞬間、
私は何ひとつ解釈しようとしていませんでした。
雨は降り、苔は濡れ、木々は揺れ、
森の奥には深い静寂が広がっていた。
そこに神々の存在を証明する必要もなければ、
雨が降った理由を
自分の人生に結びつける必要もなかった。
ただ、目の前の世界が美しかった。
不可解で、妖しく、
どこか恐ろしげでありながら、
それ以上に、どうしようもなく魅惑的だった。
あの世界の中にいる自分が、
たまらなく嬉しかった。
それだけのことだったのです。
しかし、その「それだけのこと」が、
何日も経った今なお、
私の内側で鳴り続けています。
そして、こうして言葉を重ねているうちに、
私はもう一つのことを感じ始めています。
私たちは、世界を理解することによって、
世界と親しくなっていくのでしょう。
しかし同時に、どれほど理解を深めても、
なお理解しきれないものが
残っているからこそ、
世界に魅惑され続けることも
できるのではないでしょうか。
そこには、確かな保証も、
あらかじめ用意された正解もありません。
だからといって、冷ややかに距離を置いて
眺めていたいわけでもない。
不可解なものを不可解なままに、
矛盾するものを矛盾したままに、
なおその世界の内側へと身を置いていく。
私は、そんな佇まいを、
どこかで「沈黙の楽観」と
呼びたいのかもしれません。
何が起こっても大丈夫だと
信じ込むことではない。
あらゆる出来事に、都合のよい意味が
与えられていると考えることでもない。
世界は、私の理解や解釈よりも、
はるかに深く、広く、そして
不可解なものである。
そのことを知りながら、
なお世界に魅入られてしまう。
理解と不可解。
論理と抒情。
構築と混沌。
互いに相容れないものが、
どちらか一方へ解消されることなく、
ひとつの命の内側で鳴り続けている。
その歪な響きを消し去らずに
生きていくところに、
私の惹かれる美しさがあるように思うのです。
結局のところ、
あの韓竈神社で出会った男性が
何者であったのか、
日枝神社の木札の紐がなぜ切れたのか、
そこに特別な意味があったのかどうか。
今も何ひとつ、確かな答えはありません。
それでも、あの出会いは消えていない。
そして何よりも、雨音と苔の匂いに包まれ、
突然、世界の内側へ
吸い込まれてしまったときの、
あのどうしようもない歓喜。
それだけは、今も身体の奥に残っています。
意味は、後からいくらでも
生まれてくるのでしょう。
しかし、意味になる前に、
すでに鳴っていた音がある。
私は、その音を消さないために、
こうして言葉を紡いでいるのかもしれません。
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