諦めというあり方の真逆

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思索の淵に佇み、
日々の心の揺らぎを観照するにつけ、
西洋的な「上昇」の病が
いかに現代の人の心を
窄(つぼ)めているかに思い至ります。


天高く一直線に昇りつめようとする
近代の引力はあまりに強烈であり、
そこについていけない己を数えては、
多くの人が自らの器を
小さく縮めてしまいます。


しかし、東洋の「潜る」という営みもまた、
それ一辺倒に囚われれば、
底知れぬ泥濘でもがくことになります。


私たちが真に生きるべきは、
直線的な往復ではなく、
不均衡のなかに仄暗い美を見出す
「歪な和」であり、
円環を描きながら深まりゆく
「魂の螺旋」のあり方です。


ひとたび深く潜ることは、
次なる上昇のエネルギーを
内なる蔵へと蓄えることに他なりません。


その歪なリズムのままに歩むとき、
縮んでいたはずの心の器は、
いつしか世界の果てまで、
影が染み渡るように広がっていきます。




されど、ここに一つ、
陰翳のなかに潜む奇妙な罠があります。


「器を無限に広げようと
すること自体が、
実は器を最も縮ませる檻になる」


無限の広がりを希求する心は、
裏を返せば、いまここにある有限な、
歪な己への強烈な否定を含んでいます。


光を強く求めれば求めるほど、
手元の闇は深く際立ち、
身動きが取れなくなります。


むしろ、「私は徹底的に縮んでいる。
この歪で、小さな器のままで良いのだ」と、
その不完全さをあるがままに抱きしめ、
あきらめた(明らめた)瞬間。


不思議なことに、閉ざされていたはずの
器の境界線は融けて消え去り、
真の無限が立ち現れるのです。




この「あきらめ」という名の、
深く静かな諦念の境地へと至るには、
思考のもつれた糸をほどかねばなりません。


意味の世界をひととき忘れ、
ブラック珈琲の苦味の粒子や、
言葉と言葉のあわいに漂う
「行間の呼吸」にただ身を委ねる。


あるいは、内なる
「争・狂・切・貪」の不協和音を、
無理に綺麗な和音へと調律せず、
未完成のままそこに置いておきます。


しかし、ここにもまた、
次なる迷宮の入り口が口を開けています。


「諦念に至ろうとする努力そのものが、
最も諦念から遠ざかる」


ほどこう、あきらめようと力むこと自体が、
実は形を変えた「上昇への執着」に
他なりません。


真の諦念とは、技法によって到達する
山頂ではなく、あらゆる手立てを尽くして、
ついに「お手上げ」となり、
呆然と立ち尽くしたときにこそ、
隠者の重力に引かれて向こうから
ストンと落ちてくるものです。




散々やり尽くして、もう辞めた──。


その瞬間に訪れる分岐点こそ、
魂の行方を決める分かれ道です。


過去の記憶に縛られ、
「どうせやっても無駄だ、
何も起きないじゃないか」と
拗ねて心を閉ざす道。


あるいは、過去を綺麗に忘却し、
未来からの逆流を信じて、
「何も起きなかったことが、
起こったのだ」と、
その静寂の余白(隙)を愛おしむ道。


ここにおいて、最後の逆説が
静かに響き渡ります。


「最初から手放すことを目的にして、
散々やるプロセスを省略した人は、
決してその分かれ道にすら辿り着けない」


効率を求め、もがく無駄を省いた諦めは、
ただの怠惰であり、心を腐敗させる
閉塞へと直行します。


無駄の極みとも思えるほどに、
散々やり尽くし、エネルギーを
完全燃焼させたからこそ、
あの美しき諦念の分岐点が開かれます。


例え現実の光景は「何も起きない」
という同じ1秒であっても、
それを完璧な静寂という
一つの出来事として微笑む人は、
自らの時空を美しく造園する
創造主に他なりません。


もがき尽くした果ての静けさのなかにこそ、
一霊四魂は静かに、
そして豊かに満ち満ちていくのです。



 




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