虚勢の鎧が剥がれる刹那――「本当は」という震え声を聴く

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プライドという名の防衛線



世間では、
「プライドが高い人は扱いづらい」
「見栄や虚勢は捨てるべきだ」と、
ずいぶん簡単に語られることがあります。


確かに、中身の伴わない
誇大なプライドに振り回され、
「そんな泥臭い仕事はやりたくない」
「失敗して恥をかきたくない」と、
自ら行動の幅を狭めてしまう姿は、
傍から見ればどこかもどかしく、
とても勿体ないものに映ります。


けれども、その頑なな「プライド人格」を、
単なる悪徳や性格の歪みとして
切り捨ててしまうだけでは、
その奥に息づいている魂の姿を
見誤ってしまいます。


虚勢や見栄とは、その人が過酷な世界を
生き延びるために、必死に築き上げてきた
仮住まいの要塞のようなものです。


内なる未熟さや傷つきやすさ。


あるいは、「等身大の自分では
受け入れてもらえないのではないか」という
根源的な恐れ。


そうした震えから身を守るために、
人はプライドという厚い鎧をまといます。


それは外へ向かう攻撃性であると同時に、
自分自身を守るための、痛々しいほど切実な
防衛本能でもあるのです。




魂を売り渡す境界線――還れなくなる場所



人間という歪な生き物は、
ときにその虚勢が行き過ぎ、
越えてはならない境界線を
踏み越えてしまうことがあります。


私はこれまでの歩みの中で、
本当にさまざまな人の光と影を等身大で
観照してきました。


その経験の中で、どうしても
語らざるを得ないことがあります。


それは、私はまだ、
完全に魂を売り渡してしまった人が、
自らの力だけでこちら側へ還ってきた姿を、
一度も見たことがありません。


己の非を一切認めず、他者を踏みつけ、
強欲や支配だけを生きる拠り所に
してしまった人。


いわゆる「鬼」と呼ばれるような
状態にまで至ったとき、
人の言葉はもう届かなくなります。


対話は対話として成立しなくなり、
ただ奪い、ただ支配し、ただ他者を
利用することだけが目的となってしまいます。


そうなった人は、
一度、自ら積み重ねた業の重さを全身で
受け止めるところまで歩むしかありません。


それは誰かが与える罰ではなく、
自ら蒔いた種が、自らの人生へ
静かに還ってくるということです。


だから私は、そのような状態にまで至って
場を穢してしまう人に対しては、
曖昧な優しさを向けることはできません。


場を守るためには、静かに結界を張り、
「ここから先には入れません」
と伝えることも必要になります。


それは相手を裁くためではなく
これ以上、新たな業を積み重ねないための、
一つの節度でもあるのです。


けれど、その一方で、
まだその境界線の手前で立ち止まり、
苦しみ続けている人たちがいます。


私は、その人たちの姿を何度も見てきました。


なぜ、それほど苦しいのか。


理由は一つしかありません。


奥に残っている光が、今の歪んだ自分を
静かに照らしてしまうからです。


もし完全に闇だけになってしまえば、
苦しみはむしろ消えていきます。

他者を傷つけても痛まず、
奪っても苦しくなくなり、
傲慢さだけが日常になっていくからです。


しかし、まだ魂が息をしている人は違います。


家へ帰り、一人で机に向かい、
静かにノートを開いたとき、ふと、
「また見栄を張ってしまった。」
「また嘘をついてしまった。」
そんな小さな声が、自分の奥から
聞こえてきます。


その情けなさに涙が滲むのは、魂が、
「こんな生き方が本当の私ではない」
と、今もなお囁いている証なのです。


だから苦しい、だから揺れる、
だから、その人はまだ還ってこられる
可能性を残しています。


私は、人が涙を流すことそのものを
救いだとは思っていません。


けれど、その涙の奥に、
まだ光が残っていることを感じたなら、
私はその人の未来を、
静かに信じて待ちます。




行間に流れる呼吸と、扉の前に置く鍵



いつもプライド人格が前に立ち、
同じ負の螺旋を繰り返してしまう人と
向き合うとき、
私たちが最も陥りやすいのは、
その見栄や虚勢を正論で
崩そうとしてしまうことです。


「それは見栄ですよね。」

「本当はできないのでしょう。」


そんな善悪や正邪の物差しで踏み込めば、
人は恐れからさらに厚い鎧をまといます。


ある人は殻に閉じこもり、
またある人は怒りとなって
立ち去っていきます。


だから私は、まだ奥に光を残したまま
揺れている人には、静かに耳を澄ませます。


その人が張った見栄も、虚勢も、
すぐに裁くのではなく
一旦そのまま「蔵」に収めるように、
静かに受け止めます。


彼らは外では堂々として見えても、
内側ではずっと震えています。


「本当の自分を知られたら、
きっと見捨てられてしまう。」


その幼い頃から抱え続けてきた震えを、
誰にも見せられないまま生きてきたのです。


だから対話とは、言葉だけで
行われるものではなく
行間に流れる静かな呼吸も伴います。


その呼吸が少しずつ重なっていくとき、
虚勢の世界と、本心(魂)の世界の境界が、
ふっと揺らぐ瞬間があります。


それまで大きな声で自分を守っていた
プライド人格が、自らの重みに耐えきれず、
みしりと音を立てて軋み始めます。



そして、そのほんの小さな隙から、
飾らない願いが、そっと姿を現します。


「……本当は。」

と、震えながら漏れる、
小さな小さな囁きです。


私は、この瞬間こそ、人の魂が
もう一度生まれようとする
産声なのだと思っています。


だから、その声を大切にしています。


私はただ、静かにこう伝えます。

「今、確かに本当の声が響きましたね。」


正しいか、間違っているか、
そんな判断ではありません。


その人の奥底からようやく響いてきた
小さな音を、
そのまま返してあげるだけなのです。


一本の弦に触れたとき、
隣の弦が自然と震えるように。


人の魂もまた、評価ではなく共鳴によって
動き始めるのだと私は感じています。


そして相手の魂の扉を無理に開けるのではなく
魂の扉の前へ、そっと鍵を置いて一歩退きます。


その人の人生は、その人だけのものだからです。


「開けるのは、あなたです。」

「もし望むなら、私は隣で
開通式には立ち会います。」

「でも、その鍵を回せるのは、
あなただけなんですよ。」


圧倒的に関わりながら、
圧倒的に自由を尊重する。


急がせず、焦らせず、それでも信じて待つ。


私は、その距離感の中の気によって
魂が宿る、灯ると思っています。


それは、誰かを変えることではなく
その人自身の時が満ちるのを、
静かに見守ること。


その在り方こそが、
私の未来型の在り方なのかも
しれません。


(実は、このように他者の見栄や虚勢を
観照している私自身も、
日常のふとした瞬間には、
つい見栄を張り、虚勢の鎧を
引き出してしまうことがあります。

誇りや誉れを胸に抱いて生きていたとしても、
生きている限り、見栄や虚勢が
完全になくなることはありません。

私もまた、その途上にいる一人です。

だからこそ、対話の場で、自分の中に
その揺らぎを感じたときは、
一度席を立ちます。

珈琲をゆっくり啜りながら、
そのとき心に浮かんだ九字曼荼羅を、
静かに描きます。

「徳」が浮かんだら
損得に心が揺れている。

「隙」が浮かんだら
好きか嫌いに力が入りすぎている。

「誠」が浮かんだら
正しさや邪な心で人を見始めている。

一文字を念(おも)うと、
不思議と握り締めていた力がほどけ、
呼吸が還ってくるのです。

そして、次の風の中へ歩き出します。)




無自覚なる「へんげ」の誉れ



やがて、自らの手で鍵を回す日が訪れます。

ギギギ……と、長い年月閉ざされていた扉が
少しずつ開いていきます。


その向こうから現れる姿を、
一番わからないのは実は本人です。


けれど私は、その瞬間を
幾度となく見届けてきました。


人は、本当に驚くほど美しく
「へんげ」します。


誰かのようになろうとしていた人が、
ようやく自分自身へ還っていく。

それまで、大きく見せよう、賢く見せよう、
完璧であろうとしていた力みが、
春の雪のように静かにほどけていきます。



そして、自分では何も特別なことを
しているつもりもないまま、
泥臭く、等身大で歩いている姿が、
不思議なくらい人の魂を揺らし始めます。


私はその光景を見るたび、

「ああ、今日も一番贅沢な景色を見せてもらった。」

そんな感謝が、静かに込み上げてきます。


最初から美しく整った誇りを持てる人など、
どこにもいません。

むしろ、「こんな自分では終われない。」
そんな見栄や虚勢という歪な和が
あったからこそ、人は未来へ手を
伸ばすことができたのでしょう。


だから、その過去を否定したり
封印しなくてもいいのです。

見栄を張った日も、虚勢を張った日も、
恥ずかしかった日も、
すべてが今日へ続く道です。


その一つひとつを、さらりと水に流しながら、
現実との隙間を、ただ泥臭く、淡々と、
今日も埋めていく。また流していく。


その歩みそのものが、
やがて唯一無二の誇りとなり、
誰にも真似のできない誉れへと
静かに発酵していくのです。



だからこそ、その手前で震えながら、

「……本当は。」

と漏らした小さな声を、
決して聴き逃したくないのです。


私は今日も、その人の扉の前へ
静かに鍵を置き、また庵へと還ります。


風は急ぎませんし、魂も急ぎません。


それでも季節は巡り、
人は、それぞれの時を生きながら、
必ず自分だけの「へんげ」の季節を迎えます。


私は今日も庵の縁側で、
風の音に耳を澄ませながら、
まだ見ぬ誰かの「本当は……」という
小さな囁きが、この世界に
そっと響いてくるのを、
静かに待ち侘びているのです。



 




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