苔むすしじまと、雫の桜のあわいでーーアニメ「平家物語」観照録

eniIMG_3229

「祇園精舎の鐘の声――」



この言葉を思い出すとき、
私はいつも、滅びや無常
そのものだけでなく
そのあとに残る静寂さの響きに
意識が惹かれていきます。



すべてが過ぎ去りしあとの残響。


削ぎ落とされ、剥がされ、
それでもなお、
消えずに在り続ける気配。


それが何なのか、
まだうまく言葉にはできないでいます。


けれど、確かに在る。


そのことだけは、どこか感じています。




アニメ「平家物語」を見ながら、
祇王や徳子のことを考えていました。



あの人たちは、幸せだったのだろうか。



そう問いかけようとするたびに、
言葉がどこかでほどけていきます。


「不幸だった」と言い切れば、
あの静けさがこぼれ落ちる。


「幸せだった」と言えば、
あの痛みが軽くなりすぎる。


どちらでもない。


どちらでもある。



そのあわいに、何かがある。




祇王寺の門の脇に置かれた椅子に、
ただ座っていたときのことです。


何かを考えていたわけではありません。


何かを得ようとしていたわけでもありません。


ただ、そこに在ったまま。



風がわずかに通り、
葉がかすかに揺れ、
苔が静かに息をしているような
気配の中で、
時間というものが、少し遠くに
行ってしまったような感覚がありました。



感じて浮かんだ気持ちが。


このままずっと、ここにいたい。

このままここにいる自分がいる。



何かを捨てたいわけでも、
何かから離れたいわけでもない。


むしろ逆で、
もう、どこにも行かなくていい。
そう思えてしまうような
静かな景色でした。



あの場所には、華やかさはありません。


何も起きていないから、満ちている。

何も動いていないから、感動する。



言葉にするならば、
静寂の至福とでも呼ぶしかない感覚に
触れていました。


苔というものの美しさ。


長い年月をかけてしか育たないもの。


踏まれても、押しつぶされない、
あの小さな緑。


祇王が生きていた時間が、
あの苔の中に静かに
溶け込んでいるような気がして、
しばらく動けませんでした。




その感覚は、そこで終わるものではありませんでした。


別の場所で、別の形で、
同じように静かにやってきました。


寂光院を訪れたときのことです。


木々の枝に無数の雫が残り、
まるで桜のように揺れていました。


咲いているわけではないのに、咲いている。

散っているわけではないのに、散っている。


その光景を見上げながら、
私はしばらく、ただ立ち尽くしていました。



小さなお堂に入ったとき、
空気がすっと変わりました。


静まり返っているのに、
どこか張り詰めていて、凛としている。


誰も何も語っていないのに、
何かがずっと語り続けているような気配。


その中で、ただ手を合わせていました。


何を願ったのかは覚えていません。


ただ、祈っているというよりも、
祈りの中に入っていた。


そんな感覚でした。



そして、お墓の前に立ったとき、
言葉より先に、涙が溢れていました。


悲しいというよりも、
何かに触れてしまった、
という感じでした。



ここに来れてよかったな。


その言葉が、自然と浮かびました。
同時にーー


「ここにいてくれて、
ありがとうございます。」


という念いが、静かに重なっていました。



徳子の人生を思えば、
その言葉があまりにも
軽く響いてしまうことも、
どこかで分かっています。


それでもなお、あの場に立ったときに
感じたことは、嘘ではありません。


悲劇を知っているのに、
その場に流れている静けさに、
深い安らぎを感じてしまう。


その矛盾を、
私はまだほどけてもいないでしょう。




けれど、
ここが一番正直なところですが、
私は、その静けさに
惹かれているのだと思います。



ただの癒しではない。


軽やかな幸福でもない。


むしろ、取り返しのつかないものを
通り抜けたあとの静けさ。


そこに、どこかで美しさを感じてしまう。



同時に、怖さもあります。


そんなところに本当に行きたいのか。

全部失う覚悟があるのか。


自分の中には、
まだ欲もあるし、執着もあります。


守りたいものもあるし、
手放したくないものもあります。



それでもなお、
あの場所に流れていた気配を思い出すと、
もう一度、触れたいと思ってしまうのです。




アニメ「平家物語」の主人公びわのこと


未来が見えてしまう。


望まずとも、これから起きることが
わかってしまう。


変えられないと知りながら
それでも共に歩いていく。


そのすべてを引き受けながら、
最後には目が見えなくもなり、
琵琶法師として語り継ぐ生き方を
選んでいく。

変えようとせず、整えようともせず、
ただ、そのまま受け取っていく。


嘆きも、苦しみも、後悔も。


その姿を見ていると、
人生は理解するものではなく、
受け取っていくもの
なのかもしれないと思えてきます。



整えるものでもなく、
意味づけるものでもなく、
ただ、そのまま抱えていくもの。


盲目になっても語り続けたびわのように
見えない目で、見えていたものを
語り続けるということが、
どういうことなのか、
私にはまだ分かりません。


けれどその姿は、
何かをもらいに行くのではなく、
ただそこにあるものに触れに行く、
という在り方に、どこかで重なっています。



平家の人々を見ていると、
華やかさと絶望は、確かにどこかで
繋がっているように見えます。


頂点を知り、すべてを失い、
そのあとに残るもの、
それは、あまりにも過酷な道です。



けれど、本当にそれだけが道なのかは
分からないです。


絶望を通らずとも、
あの静けさに触れる道があるのかもしれない。


あるいは、ないのかもしれない。


ここでもまた、答えは出ないままです。




私は、あの静けさの中で、
何かを得たわけではありません。


何かを変えたわけでもありません。


ただ、触れさせてもらった。


祈りや、時間や、沈黙の積み重なりに、
その中に、ほんの一瞬だけ、
身を置かせてもらった。


物語と、場所と、時間と、記憶が、
静かに重なり合ったような、
そんな体験でした。




祇王や徳子が幸せだったのかどうかは、
やはり分かりません。



けれど、あの場所に立ったときに
感じた静けさは、確かに在った。


そしてその静けさの中で、
私は、確かに至福に満ちていました。



それが、いわゆる「幸せ」と
同じものなのかは分かりません。



けれど、あのとき感じたことは、嘘ではない。


だから今は、結論にすることも、
整理することもせず、
あの苔むすしじまと、
雫の桜のあわいで感じたことを、
そのまま、ここに残しておこうと思います。



また、静かに、あの場所に
触れに行きたいと思います。




 




ーーーーーーーー
言葉にならない行間の響きを、
千聖さんが手触りのある物語へと
翻訳してくれています。
私の沈黙と、彼女の言葉。
その重なりから生まれる余韻を、
ぜひこちらの物語で感じてみてください。
↓↓

[千聖さんの隠れ家物語]

(※ここから先は、異世界への参道です)


世間の騒音を離れ魂を灯す。黙で生む黄金のご縁の隠れ庵。未来型夢の降るみち。




山籠り重力を分かち合う、もう一つの物語。引きこもりの千聖が贈る言霊の調べ




 

関連記事

関連記事

ピックアップ記事

ChatGPT Image 2025年10月24日 05_50_08

頑張ってもお金が増えない人へ:疲れない・落ち込まない・循環する稼ぎ方

木漏れ日の差す小道を歩いていても、心の中は重たい。 「こんなに頑張っているのに、お金が増えない」「努力しても報われない」——そんな思いを抱…

WEBマーケティングシステム




おすすめ記事

ページ上部へ戻る