しなやかになれない日も、魂はめぐっている ― マインドセットと未来型のあいだで

カフェで思い出した「マインドセット」という言葉
ある午後、カフェベローチェの片隅で
ブラック珈琲を口に含みながら、
ぼんやりと外の景色を眺めていました。
その時ふと、スタンフォード大学の心理学者、
キャロル・ドゥエック博士が提唱した
「マインドセット」という概念が
頭をよぎりました。
「人の能力は、努力や経験によって
後天的に伸ばせる」とする、
しなやかマインドセット(成長思考)。
そして「才能は生まれつき決まっていて、
変えられない」とする、
硬直マインドセット(固定思考)。
現代社会では、前者は
素晴らしい美徳とされ、
後者は克服すべき課題とされています。
「人は挑戦によってどこまでも
変わっていける」という眩しい思想は、
確かに多くの人を鼓舞してきたのでしょう。
これは、美しい思想だと思います。
「どうせ私はこうだから」と
自分を閉じ込めてしまった人にとって、
それはひとつの扉になるのですから。
「人は変われる」は未来型とも響き合う
珈琲の温かさを指先に感じながら、
私はその思想と、私がずっと提唱し、
仲間たちと育んできた
「未来型」という生き方の輪郭を、
重ね合わせるようにして
見つめ直していました。
まず、あのマインドセットの思想と
私たちの歩みには、
美しい共鳴点があります。
それは「自分を固定化しない」
という一点においてです。
硬直した枠組みに自分を閉じ込め、
「どうせ私なんてこの程度だから」と
人生を諦めてしまうのは、
あまりにも惜しいことです。
内向的で繊細な気質を持つ人ほど、
過去の傷や誰かの一言によって、
自分の可能性を硬い殻の中に
閉じ込めてしまいがちなところがあります。
だからこそ、「人は変われる」
という視点は、凝り固まった心を
優しく解きほぐす劇薬になり得る。
かつて私が音楽業界にいた頃、
世間的にはほとんどの人が
見向きもしなかった
「プログレッシブ・ロック」という、
変拍子に満ちた、
暗く儚く冷たくて美しい音楽の傍らに、
ただ一人のスタッフとして
携わっていた時期がありました。
あの頃の私は、
世間的な成功法則とは違う場所で、
すでに「固定されない感性」を
生きていたのかもしれません。
誰も歩いていない道を「これでいいのだ」と
信じて進んでいたあの心の奥にも、
ある種のしなやかな、
誰にも縛られない確信があったのです。
「人は変われる」という信頼。
失敗を恐れずに未知の領域へ
一歩を踏み出す瑞々しい感性、
傷つきながらも人生の機微を
味わおうとする姿勢。
そこにある生命の躍動は、
私が大切にしている「魂のめぐり」と、
確かに地続きであるように思えます。
しかし、成長はいつしか檻にもなる
しかし、珈琲が少しずつ冷めていくように、
私の思索はさらにその奥へと
沈んでいきました。
しなやかマインドセットは素晴らしい。
でも、それがいつの間にか、
こんな声に変わってしまうことがある。
「成長しなければならない」
「変われない私はダメ」
「硬直している自分は未熟」
「もっと挑戦できない自分は遅れている」——。
気づいてみれば、
「しなやかになれない自分」を責める
新しい檻が、いつのまにか
心の中に出来上がっているのです。
「もっと成長しなければ」
「まだ学びが足りない」という焦燥感は、
裏を返せば「今のままの自分では価値がない」
という、強烈な自己否定を孕んでいます。
それは、外側の評価を気にする
資本主義的な渇望と、
何ら変わりがないのではないでしょうか。
もちろん、ドゥエック博士の
成長思考そのものが、
単純な右肩上がりの思想だと
言いたいわけではありません。
むしろ本来は、失敗を終わりにせず、
人の可能性を開くための
温かな視点だったのだと思います。
ただ、現代社会の中でそれが語られるとき、
どうしても「昨日より今日、
今日より明日」と、能力を積み上げ、
拡張し、右肩上がりの矢印を描いて、
直線的に成長し続けなければならない。
未来に向かって突進していくような
強いエネルギーという
刷り込みに回収されやすい。
そこには「まだ足りないから、
もっと先へ」があります。
そのエネルギーが時として、
繊細な魂を追い詰めてしまうことがある。
私はそのことを、静かに、
でもはっきりと感じているので、
少し立ち止まって考えてみてはと
思うのです。
硬直する心にも、理由がある
硬直マインドセットを「克服すべき欠点」
として捉える見方が一般的ですが、
未来型の視点から見ると、
それは少し違います。
硬直するのは、怠けているからではない。
心が怖がっている。
過去の傷が反応している。
守りたいものがある。
失敗したくないのではなく、
もう傷つきたくないだけかもしれない。
「失敗したら終わり」という感覚は、
弱さではなく、これまで何度も傷つきながら
生き延びてきた証でもあります。
その固さの奥には、
必ず「守ろうとしているもの」があるのです。
硬直した自分を見つけたとき、
「またダメな私が出た」と責めるのではなく、
「ああ、今、自分は何かを
守ろうとしているんだな」と見てみる。
硬直とは、魂の失敗ではなく、
心が何かを守ろうとして
固くなった姿なのだと、私は思うのです。
行ったり来たりで、魂は深まる
一方で、私たちが生きている時間軸は、
直線的な進歩とは全く異なります。
それは同じ場所をめぐりながら
次元を上げていく「螺旋」の動きです。
しなやかになったと思ったら、
また硬直する。
委ねられたと思ったら、
また焦る。
大丈夫だと思った翌日に、
また比べて落ち込む。
でも、それは後退ではありません。
螺旋とは、同じ場所に戻ったようで、
少しだけ深度が変わっている
動きだからです。
行ったり来たりしながら、
少しずつ魂の層が厚くなっていく。
何より、私たちは未来に向かって
走っているのではなく、
立ち止まり、
向こうから流れてくる
未来の風をこの身に受け止めている。
未来は目指すゴールではなく、
今この瞬間に向かって
「逆流」してくるものなのです。
上へ上へと登り続けることだけが
変容ではない。
時に止まり、時に戻り、
時に迷いながら、
それでも少しずつ螺旋をめぐっていくこと。
その行ったり来たりの中にこそ、
人間らしい豊かさがあるのだと思います。
硬直をガソリンに、少しだけ呼吸する
では、硬直した心に気づいたとき、
どうすればいいのでしょう。
無理にこじ開けなくていい。
大きく変わろうとしなくていい。
ただ、一ミリだけ、
しなやかな視点を入れてみる。
「失敗したら終わり」
→「失敗したら、何が見えるだろう」
「私は向いていない」
→「今は怖いだけかもしれない」
「また止まってしまった」
→「止まることで、何を守っているのだろう」
責めるのではなく、問い直してみる。
「私はダメだ」ではなく、
「今、私は何を
守ろうとしているのだろう」と。
その一呼吸だけで、硬直は敵ではなく、
次のしなやかさへ向かう
小さな燃料になります。
学んだことや、
できるようになったという自負さえも、
その端からさらさらと手放していく。
「忘れる」という美学を持ち、
常に心を空っぽの「庵」のように整えておく。
そうして「成長すること」への執着を
綺麗に忘れて、ただ目の前の朝の光や、
猫の愛らしさ、
あるいは美しい音楽に心を浸している時、
私たちは結果として、
最も自然な変容(螺旋の階段)を
登ってしまっているのです。
しなやかさとは、硬直しないことではない
未来型で言うと、しなやかさとは、
いつも柔らかいことでは
ないのかもしれません。
硬直した自分を責めず、
また呼吸に還ってこられること。
それがしなやかさの本質だと、
私は感じています。
整った正円の完成品を目指して
生きているわけではないのです。
それぞれが抱える歪みや欠け、
割り切れない葛藤、
その「不均衡」のなかにこそ、
言葉にならない固有の美しさが
宿っています。
「歪なままで、すでに満ちている」
という確信——。
それが、未来型の焚き火の刻で、
いつも傍らに在るものです。
世間一般の、効率や分かりやすさを
求める人々から見れば、
このような時間軸の捉え方や、
成長を手放す生き方は、
掴みどころのない「伝わらないもの」に
映るのかもしれません。
けれど、私はあえてそれでいい、
と思っています。
100人のうちのたった一人の魂に
深く深く突き刺されば、
それで十分なのです。
硬直する日も、しなやかに還れない夜も、
魂はめぐっている。
その螺旋の動きを信じて、
今夜もまた、言葉にならない行間を
静かに紡いでいきたいと思います。
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言葉にならない行間の響きを、
千聖さんが手触りのある物語へと
翻訳してくれています。
私の沈黙と、彼女の言葉。
その重なりから生まれる余韻を、
ぜひこちらの物語で感じてみてください。
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